「となりのパラダイス」は、サバンナと密林だった!

今、ドイツの著名な哲学・神学者でベストセラー作家ヨハネス・ハルトルの新刊『エデン・カルチャー』を読み始めました。「人間らしさ」に希望を託した未来のビジョンが書かれた本です。SDGsでは主に、人間が地球に与えるインパクト「人間のエコロジー」がテーマになっていますが、ハルトルは、人間のエコロジーを超える「心のエコロジー」を提唱しています。心のエコロジーは機械にはない「人間らしさ」で、1)結びつき、2)意義 3)美意識から成り、それは、彼によれば、身近にもある「楽園(エデン)」に存在するものです。

序章で、「エデン(=パラダイス)」の記述があります。現代人の大半が頭に描くパラダイズは、草原に樹木がまばらに立っていて、川や湖がある風景だそうです。田園風景もこれに近いものです。人間のこの「好み」は、人類ホモ・サピエンスが誕生し、長い間、生活していたアフリカのサバンナの風景から来ている、という説が紹介されています。

夕方、その箇所を読んだ後、マウンテンバイクで外へ出かけました。私が「身近なパラダイス」と呼んでいる、すぐ「となり」にある牧歌的な風景の中へ。住民だけでなく、たくさんの来訪者の心を和ませるシュヴァルツヴァルトの里山景観です。拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』の4章に記述しています。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3

開けた谷間の坂道を登りながら、ここにサバンナの要素があることに、はじめて気付きました。緑の牧草地とそこにまばらに点在する果樹です。牧草地の上に被さるようにして森もあります。人類の遠い祖先は、サバンナに出てくる前は、密林の樹上で長い間、生活していました。だから、森林の中の風景も、おそらく、人間の遠い記憶の中に刻まれている楽園であって、いくつかの書籍では、それが森林浴の精神医学的効果の一つの要因として挙げられています。

街の郊外の住宅地に住む私たち家族が、徒歩5分、自転車だと1分でたどり着ける「となりのパラダイス」は、人類の遠い記憶に刻まれている「サバンナ」と「密林」という2つのタイプの楽園が並存している、とても贅沢なところなんだと、認識を改めました。

田んぼと畑と草地と森からなる日本の田舎の里山景観も、人間の生活文化が造った、類似の贅沢なパラダイスですよね。人々の、自然と調和した生活があって初めて維持される文化景観であることも、同じです。

ベーシックが大切

フォレストジャーナルに頼まれて、ドイツの森林業で、川上と川下を繋ぐキーマンであるフォレスターの記事を書きました。
https://forest-journal.jp/market/31805/

1)質の高い森林調査と整理されたデータ、
2)持続的な素材生産計画、そして、
3)現場や所有者の状況を隅々まで把握する異動が基本ないフォレスターの「頭脳コンピューター」の大切さを、
とりわけ強調しました。
日本では、四半世紀前から「高性能林業機械」、ここ数年は「スマート林業」「異業種参入」などアピールされていますが、それらの魅力的に聞こえる「ツール」も、上記の3つのベースに加え、4)質の高い道のインフラと、5)人を育てる教育システム、という基盤があって初めて、その性能が発揮されます。
私は、何事もベーシックが大切だと思います。ベーシックは目立たないし、見新しくないし、単年度という組織の都合や、政策決定者の短い任期内では、目に見える成果は上げられないことが大半なので、抜本的な議論や長期的なビジョンの構築と実践は、やりにくい構造ですが、やるべきことだと思います。
それから、記事の最後に書いていますが、その職業を学ぶ人間、それに従事する人間にモチベーション与える「ロマン」も大切だと。

https://forest-journal.jp/market/31805/

脱イデオロギーの、尊厳を基盤にした市場経済

市場のプレイヤーが「競争」というモーターで、利益を最大化することによって、社会が国が豊かになる、という寓話を信じる(信じたい)「資本主義」が、環境破壊や社会格差を起こしていることは明らかで、その構造は、マルクスの研究者である斎藤幸平氏の『人新世の資本論』にも明確に描写されている。

ただ、マルクスは「資本論」にて、市場経済の主要な生産ファクターとしての「資本」について論じているが、資本「主義」とは言っていない。18世紀半ばの産業革命を契機に拡張し、現在、世界で支配的になっている経済システムは、ニュートラルに表現すれば、「資本主義」ではなく、「資本制」もしくは「資本による市場経済」だろう。でもいつの頃からか、政治思想(イデオロギー)的な表現「資本主義」になってしまった。その経緯や背景については、いくつか文献があるようなので、今後調べてみたい。

私は「資本による市場経済」というシステム自体ではなく、イデオロギーになった「資本主義」の目標設定を問題視したい。資本家の利益の最大化が、最高の目標とされ、それが結果的に社会全体を豊かにする、という寓話によって正当化されていることを。収支決算の結果(利潤の大きさ)をメインに企業を評価する仕組み、GDPを国の豊かの主要な指標とする仕組みも、「資本主義」という寓話に基づいている。

しかし他方で、現代の資本主義経済の中にも、以前から、環境調和的で、社会的に公正で、持続可能な経済活動はある。

世界中にある協同組合、もしくはそれに準じる企業や団体の活動がその一例である。ドイツの協同組合のパイオニアの1人とされるライフアイゼンの誕生200周年であった2018年、ドイツのライフアイゼン協同組合連合会は、年次報告書で「資本家のいない資本主義」、と協同組合のコンセプトの核心を挑発的に謳っている。協同組合では、大勢の出資者によって民主的な運営がされ、利潤の投資も分配も、定款に基づいて、公益性と平等が重視される。利潤を上げることが「目標」ではなく、利潤は、組合員や社会を幸せに、安全に、豊かにするための「手段」である。

また、協同組合でなくても、あえて上場しない株式会社や、利潤を公益的な事業に投資し、公平に従業員に分配し、成長よりも地域との繋がりを重視する家族企業や中小企業もある。利益の最大化が第一目標ではない、地域を豊かにする企業もある。

今必要とされているのは、寓話でしかありえない、現実に機能しない、社会に持続的な豊かさをもたらさない政治思想としての「資本主義」を、イデオロギーの呪縛から解放すること、現実に機能する新しい目標を与えることだと私は思う。別に全く新しいことではない。革命でもない(革命は反発や反動を呼び、非生産的な結果を導くことが多い)。以前から機能している協同組合や、家族や地域や自然環境や従業員を思いやる企業経営は、世界中に存在しているし、困難や問題意識の中から、新しいものも生まれている。斉藤氏は「人新世の資本論」の最後の方で、それら現代のコモンの事例を紹介している。

企業を、利益の大きさだけでなく、社会性や環境負荷なども含めて、包括的に評価する仕組みも、「豊かさ」を、GDPという狭い観点ではなく、広い観点で計算、評価する手法も、世界に、すでにいくつも存在し、活用されている。それらを、積極的に、経済の仕組みの中に組み込んでいくことが求められている。

斉藤氏の研究と著書は、これまで誤解されていたマルクスを、国家社会主義や国家共産主義というイデオロギーの呪縛から解放することに貢献していると思う。彼は、脱成長、脱資本主義を主張しているが、私は資本による市場経済の脱イデオロギーを提唱したい。そのためには、これまで「対象」で「受動者」であった市民や労働者が、「主体的」で「能動的」な参画者とならなければならない。そうなるための共通の精神的な基盤として、私は「尊厳」を挙げたい。拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』 https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3 の最後で論じたことだ。「尊厳」も新しいものではない。脳神経学の観点からは、人間が生まれ持っているものであるし、国連憲章でも、多くの国の憲法でも、「最も大切な価値」として位置付けられている。

尊厳を基盤にした市場経済。非現実的な夢物語ではないと思う。

「人新世の資本論」を読んで、ヘッセとマルクスが繋がった

昨年から話題になっている斎藤幸平氏の「人新世の資本論」。序文にて「SDGsは大衆のアヘンである」と、市民の身近な環境行動を非生産的なものとして批判している、ということを、知人のブログで半年くらい前に読んだ。個々人の身近な行動が、意識の広がりを生み、最終的に社会を動かす力にもなっていくポテンシャルもある、という考えを私は持っているので、反発があった。また、多くの読者がこの本を手に取る前に思ったであろう「なぜ今さらマルクス?」という疑問もあった。だからしばらくの間、取り立てて読もうとも思わなかった。でも多くの読者を魅了し、力を与えている本のようなので、その真相を、他の人の書評でなく、自分自身で確かめたいという思いもあり、最近購入して読んでみた。

SDGsには、義務規制も、統一的な査定や認証の仕組みもないので、CSRと同じようにグリーンウォッシュとして悪用されることも、自己満足や、深刻な問題に目を閉じるツールとして使われることもある。斎藤氏は、資本家による利潤の蓄積が目的、機動力となっている資本主義という現代社会の問題の根本にあるものにメスを刺さずに行われている政策や運動を批判している。彼はその文脈で、代表的な運動の例としてのSDGsを挙げて「大衆のアヘン」と表現している。ただ、SDGs自体は、1992年のリオの環境会議からの活動の中で構築されてきた、包括的な指針であり、これまでの人類史にはない、人類の共通の意思表示である。私は高く評価している。その指針に命を吹き込んで行くのが個人や企業や団体や自治体や国の使命だと。

私は今年の春に出版した『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』にて、社会が変わるためには、個々の人間の心が変わることが大切だ、という経験的な認識を、私が敬愛するヘルマン・ヘッセを随所に引用して伝えた。ヘルマン・ヘッセは、1960年代から 70年代にかけての世界的な社会変革運動の活動家たちに大きな影響を与えたドイツの作家で、同じく大きな影響を与えたマルクスとよく並べられ、対比される。2人は対照的な人物だ。ヘッセも意識していたようで、「…..マルクスと私の違い。マルクスは人類を変えたい。私は個々の人間を変えたい」という短い言葉を残している。

ヘッセは、「我がまま(自身の心の奥深くにある神聖なものに従うこと)」という心の羅針盤を持った人だった。彼の作品には、世界を変えるためには、個々人の心が大切であるという思想が、共通のメロディとして流れている。それに対してマルクスは、社会制度や政治という枠組みを変えることで、世界を変えようとした、と私は理解していた。少なくとも、これまでのマルクスを思想的な支柱にした運動は、そういうアプローチだった。でもうまくいかなかった。だから、なぜに今さらマルクスか、と不思議に思った。でも斎藤氏は、新しいマルクス像を私に与えてくれた。

最近の研究で明らかになってきた晩年のマルクスの思想を、斎藤氏は『人新世の資本論』で解釈し、紹介している。それは、コモン(共有され共同管理される富)の拡張による民主的な「脱成長コミュニズム」である。過去にうまく行かなかった国家権力による社会主義や共産主義ではなく、市民や労働者が主体となった民主的な政治体制や企業・団体のマネージメントによるものである。斎藤氏は、世界中にある協同組合的な企業や市民団体の活動を、脱成長コミュニズムの芽として紹介している。経済分野においては、資本家が利潤を増やすための道具、別の言い方をすると「人材」や「労働力」である労働者が、生き物である人間として、主体的に創造的に働くことができる体制である。これら各地で発生している個々の小さな実践や活動が、世界的に繋がり、社会制度やシステムを大きく変えていく力になる、と斎藤氏は説いている。私が『多様性』の最終章で、ヘッセや脳神経学のヒューター、小澤征爾やスティング、チャック・リーヴェルなどの音楽家を引用し、描いているヴィジョン「尊厳を取り戻した個々の人間による社会の跳躍」と通じるものを感じたので、とても共感した。これまで対照的なアプローチの思想家だと認識していたヘッセとマルクスが、斎藤氏の名著により、私の中で繋がった。

宮脇メソッドの「密植」と天然更新の「密生」の背後にある原理と、人の手の必要性の考察

世界で急速に広がっている、荒地やちょっとした空き地に「ミニ森林」を造成する宮脇メソッドに私が好感を持っているのは、近自然的森林業における天然更新と類似点があるからだ。それは、どちらも「密」で「多様」だということ。前者は、土を施して多様な樹種の「密植」をする。後者は、不均質な間伐で多様な光環境を土壌に与え、多様な樹種の更新を促す。狩猟でシカの食害を抑え、控えめな間伐で光の量を調整して草の繁殖を抑えることができれば、自然は溢れるほどの稚樹を「密生」させる。

密植、密生で育った樹木たちの間では、個々の樹種の光に対する性質や、土壌タイプとの相性、個々の樹木の成長生理学的特性などから、ダーヴィンの「競争」による「自然淘汰」が起こる。側から見たら、過酷な生き残り競争だが、果たしてそれだけだろうか? 密生していることで、草の成長が抑えられる。密生の中では湿度や温度が高くなり、風や日照りや雪から守られ、土壌の侵食が抑えられ、土中の生物活動が活性化し、樹木の成長が促進される。樹木の大切なパートナーである菌根菌もたくさん、いろんな種類の菌が棲みつく。樹木は、土中で菌根菌を媒介にして、空気中では、自ら生成するフェロモンを放出して、仲間や他の生物種とコミュニケーションを取っていることも、「植物神経学」という新しい学問分野で解明されてきている。「競争」の側面より、「協力」の側面が大きい。

競争にあたる英語「competition」の語源はラテン語の「com-petere(一緒に探す)」。ドイツ語「Konkurrenz」の語源もラテン語で「con-curre(一緒に歩む)」。どちらも「競争」でなく「協力」の意味合いを持つ。古代の人たちはおそらく、自然の原理、自然界の一員としての人間のあるべき生き方を、直感的に、ホリスティックに理解していたのではないだろうか。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、「競争」を主要な原動力にする社会システムが現代の様々な問題を引き起こしていること、それらの解決のためには、自然に習って「協力」の思考と行動を増やしていくことが必要だと論じた。最新の脳神経学の知見から、人間の強みは「競争」ではなく「協力」であって、進化の主要な原動力であることも。
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宮脇方式は、自然の森と類似の樹種の多様性を人工的に施して、時間と共に自然淘汰の力を活用して、人手もあまりかけずに多様な森にしていくというストーリーだが、果たしてどこでもそうなるのかどうか、私は疑問を持っている。

宮脇植樹方式と近自然森林業での天然更新に共通するのは「密」と「種の多様性」だが、両者を比較すると、地ごしらえをして土壌を均質化し、開けた場所に同じ時期に一斉に植える宮脇方式では、自然の森にある土壌の多様性、上層木による光の多様性、更新の時間差はない、もしくは少なく、自然淘汰の機能が十分に発揮できない、機能しない限界もあると思われる。私は、現在世界に広がる宮脇ミニ森林を健全な森にしていくためには、場合によって、適切な除伐や間伐が必要になると見ている。特に高温多湿の西日本では、聞くところによると、自然淘汰が起こりにくく、もやし状のひ弱い林になっているとの観察がたくさんあるようだ。

個々の植樹地は継続して観察を行い、森を健全に多様にしていくために必要な場合は、除伐や間伐で手を入れていく必要がある。宮脇先生が理想形としている鎮守の森も、多くの場合、人の手が頻繁に入ってつくられている。

宮脇方式植樹のミニ森林の2つの写真(2014年と2021年)は、東京の二子多摩川公園で撮られたもので、関橋知巳さんからいただきました。

書評 「多様性」 by 菊田哲さん

岩手中小企業家同友会・事務局長の菊田哲さんから、拙著「多様性」にありがたい書評が届きました。
6年間、同友会の有志を連れて、毎年ドイツ、スイス、オーストリアに通い続けてられ、学び、悩み、希望を持って仲間を鼓舞されてきた立役者です。その成果は、メンバー企業の未来を開く新規事業や具体的な変化となって現れています。これからも岩手を中心に広がり、深まっていくでしょう。
ほぼ2年間、交流はオンラインのみに限られてしまっていますが、菊田さんの想いと岩手の結束は、より強くなっている様子が伺えます。
シュヴァルツヴァルトでまた再会できるのを楽しみに。

私たちが毎年欧州視察で大変お世話になっている、ドイツ在住の日独森林環境コンサルタント、池田憲昭氏が「多様性」Vielfaltを出版されました。手のしたときから一気に読み込んでしまうほどで、訪れた時に目にした風景やそのとき聴こえた森のざわめき、青々しい香りが克明に脳裏に映し出されます。今起きている事象の本質とは何かが見えてきます。書評としてご紹介します。  

[書評] 池田憲昭著「多様性」を読んで

 これから起きることさえまったく予見のし得ない状況に右往左往。何処に基盤を置き、何をもって判断していくのか。
 私たちが東日本大震災後、毎年欧州視察に訪れ続け6年が経ちました。そのなかで繰り返し誘(いざな)われたのは、フライブルク郊外のシュヴァルツヴァルトと呼ばれる黒い森でした。鬱蒼(うっそう)と茂る黒い森に足を踏み入れると、多種多様な木々が足元から芽を出し、まるで私たちに話しかけてくるように迎え入れてくれます。
 そこで繰り返し聴いた音のなかに、独語のwende(ヴェンデ)という言葉がありました。その原義には、単なる変化ではなく、人間の生き方そのものの根幹からの変革を促すこと、そして将来の世代に向けた配慮があることを、後に知ることになります。まさにそれが「何のために、なぜ変わらなければならないのか」との私たちへの問いかけであることに気づきます。
 何の心の準備もないまま黒い森を訪れた私たちは、乳母車を押しながら普段着で森に入り、森林浴を気軽に楽しむ姿に衝撃を受けます。馬を連れホースセラピーで森を楽しむ家族とすれ違うのも日常の映像です。そして雪がしんしんと降る外気がマイナス10度の中でも、厚いダウンジャケットを着込んで森を歩き、山頂のレストハウスで暖かいスープでお腹を満たす現地でこそできる幸せな体験なども重ねました。
 持続可能性という言葉は、ドイツの森から生まれました。自分たちの世代のためだけではなく、次世代のために何をするのか。私たちは経営者同士の学び合いの場でも、社員との共育の場でも、「何のために生きるのか」を自らに問い直すことを、日頃大切にしています。私たちはこの6年、多様で持続可能な森とともに過ごすなかで、幾度も考え、語り合い、気づく機会がありました。そのために何年も通い続けることになりました。
 池田憲昭著「多様性」には、こうした私たちが経験してきた根底にある哲学が、惜しげもなく描かれています。自らの体験と結びつき「そうだったのか」と合点がいく。最近の気候変動や人権への警鐘も、流行を扱うかのような風潮に違和感を感じていました。池田氏はその姿を最後に人間の「尊厳」として、明らかにしています。
 岩手県立大学の初代学長であられた西澤潤一氏は、私たちが生まれながらにして持っている心を「素心知困(そしんちこん)」と現しました。生まれたばかりのことを思い起こせるならば、誰しもが人の役に立つ心を持っている(だろう)。今すぐ目の前の困っている人の役に立ちたいけれども、自分には解決できるだけの能力も経験もない。その悔しさを自らの学んでいく原動力にしていこう、というものです。宮沢賢治の理想にも触れるところです。
 私たちが黒い森の中で現地の森林官から聴いた30年から50年、更に先の世代に残す将来木(しょうらいぼく)の話も、鹿の食害から立ち上がる新芽を守るために狩猟を続けることも、 鹿肉の独特の臭みを取り美味しく調理してくれる地元の腕利きのシェフの笑顔も、そして森から切り出された木材の最高の部位だけを使用しつくられた壮大なパイプオルガンも、人間の内在する尊厳から見ると、すべてが地平線で繋がって見えてきます。
 池田憲昭著「多様性」はまさに、現代の誰もが感じている将来への恐れや不安を受け止め、自らの生き方をあらためて確認するための、示唆を与えてくれます。ぜひご一読をお勧めします。

菊田哲 筆

原生に近い森を守り、増やそう!

ドイツ国土面積は日本とほぼ同じ。「森の国」と呼ばれるが、森林率は約30%で日本の半分以下。北部は平地が多いが、中部から南部にかけて、丘陵地や山岳地がある。急峻な日本に比べて、人間が開拓しやすい場所が多いため、ほぼ全ての森は、過去に大なり小なり人の手が入っている。原生の森はない。

自然は硬直したものではない。気候や地形や地質、様々な生物種の相互作用によって、絶えず変化している。人間も自然界の一部であり、自然と「共生」している。進化の過程で脳を著しく発展させた人間はしかし、生活基盤である自然環境を、自分のイメージや思いに基づいて、大きく変える力を持った。

人間が大きく変更を加えたものの、自然の多様性とバランスが維持創出されている共生関係がある。例えば日本の里山や鎮守の森、私が住むシュヴァルツヴァルトの近自然的森林業と多面的利用がされている牧草地のランドスケープなど。一方、自然の多様性もバランスも著しく低下させ、土壌や水質の劣化や、土砂崩れや洪水、旱魃といった災害を誘発させる「共生」とは言えない搾取的利用もある。とりわけここ100年ほどの間で、技術の進歩と人口の爆発的増加も相まって、それら非持続可能な自然利用が急速に拡大している。

ドイツの森林マネージメントの政策は、1970年代半ばから、「林業」から「森林業」へ、「木の畑」から「近自然的な森づくり」へ、大きくシフトした。ただし、人間の政策が変わったからといって、森がすぐに姿を変えるわけではない。森は長い時間軸で動いている。50年経った今でも、昔の木の畑はまだたくさん残っている。昔身につけたその哲学で、「林業」を継続している人たちもいる。

自然は人間が生きる空間であり、人間は、同時にそこから資材や食料や水を得なければならない。自然への干渉は避けられない。その干渉の仕方は、搾取的なものから調和的なもの、集約的なものから粗放的なものまで多様にある。できる限り調和的で粗放的なやり方が持続可能である。ドイツの森林では、ここ50年の間、調和的で粗放的なやり方が増え、均質から多様の方向へゆっくりと進んでいる。それはいい傾向であるが、問題は、ほぼすべての森林で、大なり小なり木材生産が行われていること。人間による自然への働きかけによって、それが調和的で粗放的であっても、生息場所を奪われてしまう生物種がいる。とりわけ、食物連鎖の頂点にいるオオカミや熊、オオヤマネコは、中欧では、人間による自然干渉と、一部はアクティブな駆除行為によって、過去に絶滅に追いやられた。そのような生物種は、人間の影響が少ない、人間がほとんど手をつけない、広いエリアが必要になる。

ほぼ全てが木材生産林であるドイツの森林には、自然・景観保護区域も含まれていて、それら指定の区域では、各カテゴリーに応じて利用の制限がある。そのなかで、人間の木材利用を一切、禁止する、干渉は限られたレクレーション利用にとどめる、という自然保護の最高カテゴリーがある。州によって呼び名や細かな規制が違うが、私が住むBW州では「Bannwald(禁制森)」という。

シュヴァルツヴァルト最高峰のフェルドベルク山(標高1493m)の山頂エリアの小さな氷河湖の周りのお椀状の急峻な森林の約100haが、その「Bannwald(禁制森)」に指定されている。道は狭い岩だらけの登山道だけで、観光レジャー客はそこを歩るいて森と湖を体験する。今年は近場で日帰りバカンスをすることに決めた私の家族は、日曜日にそこを訪れた。私は学生のとき以来、ほぼ20年ぶり。

針葉樹のトウヒが5割くらい、残りはブナとカエデなどの広葉樹の混交森。過去数百年の間で人の手が入れられてきた森林であるが、過去50年あまり、ほとんど手がつけられてなく、原木利用を一切しない「禁制森」に指定されたのは1993年。風害で倒れた、夏の水不足などによる虫の害で立ち枯れになったトウヒがそのまま残されている。10年以上の時間も経ち、苔がたくさん生えている倒木もある。観光レジャーの利用制限もしっかりある。2000年から、湖畔での遊びや遊泳は禁止されている。私が学生の頃は泳ぐことができた。

人間が手をつけないことで、自然の多様化への遷移を促すこと、希少な動植物を保護するという目的の他に、中長期的に手付かずの自然を観察して、そこから近自然的森林業やランドスケープマネージメントの知見を得ていくという目的もある。私も20年前に大学でいろいろ学んだ。倒木があることで、昆虫や微生物の数が数段増え、土壌の生成にもポジティブに働き、土壌表面に湿気が保たれ、潜在植生の天然更新や、近辺の樹木の樹木の成長が促進されたりすること。また、虫は弱った樹木や枯れ木に集中し、健康な樹木には広がらないこと、などなど。林学・森林学は、現場から生まれ、現場との対話で発展している実学。たくさんのデータや理論が蓄積されている現在でも、わかっていないことはたくさんある。いつも謙虚に根気強く自然を観察することが大切だ。

ただ、100haといった比較的小さな保護面積は、一度絶滅した、また絶滅の危機に瀕している多く野生動物にとっては、生息領域として全く足りない。国立公園などでは、何も手をつけない禁制森などを核にして、その周りに利用を大部分抑えたバッファゾーン(緩衝帯)を設けるマネージメントも行われている。過去数十年のそういう措置の甲斐もあってか、シュヴァルツヴァルトでも、一度居なくなったオオカミやオオヤマネコが最近、観察されている。熊はアルプスの山地や東ドイツのポーランドとの国境付近などで少しづつ数が増えているようだ。

「禁制森」のような人間の利用を禁じ、自然に委ねる森は、ドイツではまだ、ほんの1%足らずだ。9月の連邦総選挙で政権獲得を狙う緑の党は、「原生森基金」を設立し、その資金で自然に委ねる森の面積を近い将来5%に、最終的には10%にしていくことを提案している。

日本はドイツとほぼ同じ国土面積で、ドイツの2.5倍の森林面積を有し、うち人工林が40%、残りは天然林で、天然林も町や村に近い場所は、旧里山や戦後の皆伐後の放置林(二次林)が多いですが、奥山や渓谷や標高の高い場所には、あまり人の手が入っていない森林が比較的たくさんあります。私は個人的に、そこは手を付けないで、道もつくらないで、人間の影響の少ない自然の生態系の発展の場所として残すべきだと思っています。

私の新刊『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3
では、「気くばり森林業」を日本に提案していますが、ターゲットにしているのは、本では明確に述べていないですが、居住地の近くに集中する人工林や元里山の放置林です(日本の森林の6割くらいの面積です)。そこにでは、人と自然の共生のバランスが取れた森林利用を推奨します。この6割くらいの森林でも、充分に多様な木材を持続的に供給し、将来的に国内自給できるポテンシャルがあります。日本のそういう場所での持続的な木材の利用、安全な森林保養のためには、質の高い基幹道が「必要最低限の密度」で整備されていくことを薦めます。残念ながら、過去に日本で作設された道の多くは崩壊し、または災害の起点になってています。自然保護や災害の観点で批判の的になるのは当然です。そうでない水のマネージメントをしっかりした、最大限の自然配慮をした必要最低限の道づくりの事例を本では紹介しています。

私の本を読んだある誠実な読者から「動物の観点は?」という批判がありました。人の影響の少ない、人の手があまり入らない大きな面積の生息空間が必要な動物がいます。彼らとの共存のためには、ゾーニング(棲み分け)が必要で、極力手をつけない、観光レジャーでも、明確な規制と誘導措置が推奨されます。中央ヨーロッパよりはるかに地質も地形も生物種も多様な日本の森林。分別ある気くばりのマネージメントが、貴重な財産を将来に渡って維持するために、自然と共生進化していくために必要だと思います。

パタゴニアからラジオ出演依頼

先日、嬉しい問い合わせがありました。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3
を読んだ、パタゴニア・ジャパンの社会環境部の方から、パタゴニア提供のFM長崎の番組「NATURE & FUTURE 」に、長崎出身者として出演の依頼がありました。

8月4日、zoomにて収録でした。オンラインでのラジオインタビューは初めてだったので、ちょっと緊張しました。

1時間の番組。好きな曲を4つリクエストすることもできました。私の本の5章に登場する環境保護家のスティングの曲や、森林業家でキーボーディストのチャック・リーヴェルが一緒に活動したエリック・クラプトンの曲などをリクエストすることができました。

放送は、8月13日(金)20時からです。
https://www.fmnagasaki.co.jp/program/

radikoというアプリで、放送から1週間、全国どこでも聴けるようです。

radiko | インターネットでラジオが聴けるラジコは、スマホやパソコンでラジオが聴けるサービスです。今いるエリアのラジオ放送局なら無料で、ラジコプレミアムなら全国のラradiko.jp

パタゴニアは、アメリカ西海岸に本社がある老舗のアウトドアメーカーです。私はダウンジャケットなど愛用しています。企業としても、勇気ある政治表明をし、社会的行動をしている、私が尊敬する会社です。

環境保護活動のパイオニア企業でもあり、1990年代半ばに、コットン素材をオーガニックコットンへ切り替え、それからペットボトルからなるリサイクルポリエステルの使用、2000年初頭には、使い古された衣類の引き取りとリサイクルを開始しています。

2018年には「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という宣言をし、最近では、環境再生型有機農業にも積極的に取り組んでいます。また、パタゴニアは、2025年までにカーボンニュートラルの達成を目指しています。今年には約80%が達成される見込みだそうです。

参考記事:
https://www.sustainablebrands.jp/news/jp/detail/1196062_1501.html

書評 「多様性」 by 岩田京子さん

埼玉県吉川市で長年、環境に関する市民活動をされ、市議会議員も勤められている岩田京子さんからの書評です。私が知らなかったゲーテの言葉が印象的です。

日本の森林が色々危惧されている中で、まだまだ可能性があると確信でき、ワクワクとドキドキが止まりませんでした。森の多様性は素晴らしい。「森を」「森で」楽しみたい人が増えることが大切なんだと思いました。著者の池田さんは専門家ですが、文章はとても読みやすく、森への愛情がたっぷりで前向きな気持ちになりました。

日本人も自然と共に生きてきた国民だと思っていたけれど、ドイツの「森林業」、森のつくり方・木の活用の多様性、それが全てハーモニーのように絡み合ってくまなく活用する様は「素晴らしい」に尽きます。

後半にはヘッセまで登場して、「我がまま」な生き方を教えてくれました。私たちの中に天国の教えがあるから、その心の声に忠実であれと。ヴォルテールの「私たちは自然は常に教育よりも一層大きな力を持っていた」やゲーテの「なぜ私は好んで自然と交わるかというと、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私のほうにあるからだ」などという言葉も思い出しました。昔から、自然は偉大で、全てを教えてくれているんです。

森林の話だけど、人間の生き方の話で、現代人の心にノックしてくれる本だと思います。

岩田京子 筆

漆喰リフォームで調湿と防菌

我が家の半地下にある2人用休暇アパートメントのキッチンを改修。

前の持ち主が施していた壁紙(ドイツによくあるオガクズが詰めてある紙)に、おそらく、過去20年くらいの間で2、3度、いろんな塗料が重ね塗りされている。

壁紙は、上に塗る塗料がシリカ塗料などであれば、ある程度の湿気調整はできるが、糊の層で遮断してしまうので、調湿能力は高くない。しかもウチの壁紙の塗料には何が使ってあるかわからない(たぶん、過去に、調湿性のない安いプラスチック系の塗料が使われている)。半地下のキッチンなので、湿気の問題、匂いの問題を解決するために、KANSOメンバーで友人のスイスの建築家シェア氏(www.kaso-bau.com)に相談し、壁紙を剥がし、漆喰を塗ることにした。

漆喰は、消石灰を主成分として、混合する調合材によって、透湿にも防湿にもできる。室内の壁には通常、透湿性の漆喰を使う。調湿性能が高く、匂いの中和もする。また石灰は防菌効果も高く、カビやバクテリアの繁殖を防ぐ。

まず壁と天井の紙を剥がして、壁の石膏ボードと天井のコンクリートの表面を綺麗にする必要がある。5年前に一度、賃貸マンションを出るときに壁紙の貼り替えをやったことがあるので、要領はわかっていた。4月半ばに、壁紙を剥がす作業を開始したが、昔の強力な糊で貼ってあるようで、スチーマーを使ってふやかしても、とても剥がれにくい。大変な重労働で、最初は手伝っていた子供もやらなくなる。注文した木製のキッチンも、ウッドショックの影響で納品が遅れるというし、2ヶ月半くらい、作業を中断していた。7月半ばころ、キッチン納品の連絡があったので、7月末に重い腰を上げて作業をした。紙を剥がして、穴や凸凹をヘラでパテ塗りし、さっとヤスリがけする下準備作業に、妻や子供に時々手伝ってもらいながら、合計15時間くらい費やした。

本番。まずは、天井から。天井をヘラで漆喰塗りするのは、素人には結構、難しいので、石灰系塗料をローラーで塗ることに。Kreidezeitのガセインプライマーをコンクリートに塗り、表面の付着性を高め、その後に同じくKreidezeitの石灰系塗料を2重塗りした。初めてにしては満足な仕上がり。

次はいよいよ壁の漆喰塗り。昨日の夜に、Auroのプライマー(ケイ酸カリウムが主成分)を石膏ボードに塗って、石膏ボードの表面の「締め固め」をした。今日これから、石灰モルタル(Hessler製、セメントフリー)を下地として塗る。一晩乾かして、明日、仕上げの漆喰塗り(Hessler製)の予定。

石膏ボードに漆喰を塗るのは、あまりお薦めできることではない。石膏ボードは酸性、漆喰はアルカリ性で、まず化学的な性質が違う。また、物理的には、石膏ボードは、湿度や温度の変化で若干の膨張や伸縮をする柔らかい素材。「動きやすい」ものの上に「動かない」漆喰を塗るのは、ひび割れのリスクがある。専門家のなかには、基本的にやらないほうがいい、と言う人もいる。だから、資材は、ホームセンターではなく、近くにあるエコ建材の専門店に相談して全て揃えた。そこのオーナーは、古建築のリフォームの経験が豊富な専門家。プライマーと下地のモルタルがポイントになることを教えてもらった。天井と壁のプライマー、塗料、モルタル、漆喰も、すべて調湿性のもので、溶剤や毒性物質が入っていない。

左官道具は、数年前に中古住宅のリフォームをやったフライブルクに住む学生時代からの旧友に、全部借りた。一生におそらく数回しか使わない道具なので、新品を買うのはもったいない。

さて、いよいよ本番メインの作業。どうなるか、結果をお楽しみに。