『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』がPOD出版コンテストで賞をもらいました

『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3

POD(プリントオンデマンド)出版のコンテストで優秀賞をいただきました。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000004456.000005875.html

PODとは、普通の出版社を通さない自己出版の方法で、注文が来てから印刷して送る、という紙の無駄が出ない、絶版もない(著者が決定できる)やり方です。

受賞者12名の本は、とても多彩で、普通の出版社ではなかなか出すことが難しい、各著者の特別な思いや経験、優れた知見、技能、愛情が溢れた、特別な作品です。私も読んでみたいものががいくつかあります。

PODで出版されるのは、通常、普通の出版流通に乗せてもらうのが難しい特殊な本ですが、大賞を獲得されているEdit room:H著『投資ド素人が投資初心者になるための 株・投資信託・つみたて NISA・iDeCo・ふるさと納税 超入門』は、発売から2年で1万部売れているそうです。

私の本『多様性』も、発売からもうすぐ1年経とうとしていますが、たくさんの丁寧な書評・レビューをいただき、自分では満足行く売れ行きで、とてもありがたく思っています。

POD出版を選択したのは、執筆から編集、出版まで、全部自分の責任でやってみたかったのと、普通の出版流通に乗せて30〜40%の本が返品廃却処分になる、という勿体無い状況を回避したかったからです。友人のデザイナーとプロの校正者などに助けてもらって出版しました。

以下、いただいた選評です。

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選評:ドイツに長年住む森林の専門家である著者による、四半世紀の間に学び、働き、生活する中で得られた幅広い知見が、人と森との関係を軸にまとめられた一冊です。

この本は、Amazonのカスタマーレビューでも「まさにSDGsそのもの」「SDGsの本質を学べる本」などと高い評価を受けています。実際に日本ではSDGsという言葉がバズワードにもなっているほどですが、著者が拠点にしているドイツはサステナビリティ(持続可能性)の語源を持つ国でもあるにもかかわらずSDGsを知らない人も多く、著者もそれを意識して執筆したわけではないらしいのです。

著者の池田さんご自身によるドイツでの長年の体験や経験から培われた本物の「知」と、「サステナビリティ」という時代が求めるテーマ。そのふたつが高度に結びついた内容になっている本書には、SDGsブームにのって急ごしらえで作られたようなコンテンツとは一線を画す「本物」感があります。そしてその結果として、日本では「まさにSDGsそのもの」として多くの人に受け入れられることとなりました。それらのことが高く評価されました。

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書評 「多様性」 by 友田 啓二郎さん

友田さんは廃棄物関係で日本有数のエキスパートで、広島に本社がある環境コンサルティング会社「(株)東和テクノロジー」の代表取締役を務められています。

私がフライブルク大学森林学部に入学したばかりの1998年に、お仲間の方々と一緒にフライブルク市に環境視察に来られ、その時私が1日、通訳と案内を担当しました。廃棄物の視察を午前中1時間くらいでさっと終え、その後シュヴァルツヴァルトの森林散策に連れて行ったのを覚えています。「何でこんなに歩かなきゃならないのよ」と一部の参加者から文句が出ましたが、2時間ほど、私が大学で学んだばかりの知識と森林署での研修の経験を話しながら森を歩き、その後ロープウェーに乗り山頂のレストランで昼食を取りました。

今回、廃棄物資源循環学会の学会誌に、友田さんが私の本の書評を書いてくれました。廃棄物とは全く違う分野の本を、権威ある学会誌で取り上げていただいたことに驚くと共に、深く感謝しています。一昨年から始めたオンラインセミナーでも感じていることですが、様々な分野の人たちが、「森」というテーマに潜在的な関心を持っていて、またそこから生活や仕事に、知見やヒント、勇気や安らぎを得られています。

友田さんは国際的な学会で時々、スイスやドイツを訪問されているようです。お互いしばらく会っていないので、次の機会にはぜひ、友田さんが夢にも見るという、20年以上前に私が連れて行ったフライブルクのあのビアガーデンの自ビールで乾杯しましょう、と誘っています。コロナでまだ実現していないですが、今年2022年はおそらく…。

以下、友田さんからの書評です。許可をいただいて、掲載しています。

ドイツに住み,ドイツの情報を発信する日本人は少なからずおられるが,著者の池田憲昭氏もその一人である。容器包装リサイクル法黎明期の 1990 年代,ドイツを訪れ,環境先進都市と して知られたフライブルクで視察をアレンジいただいた読者も多いのではないか。 
本書は,著者がドイツでの 25 年間で得た知識と経験をもとに,自らのフィールドである森林 学を通じて,エコシステムとしての森林のもつ多様性をテーマに,持続可能で人の尊厳を尊重 した社会,生き方を論じた良書である。 
本書は,5つの章からなり,第 1 章では,林業と森林業の違い,そして,森林に備わる多様性 を例に,多様性が持続可能性 (サスティナブル) を支える重要な要素であることを解説する。 そもそも,サスティナブルという概念は,今から 300 年前にドイツの林業の世界で生まれたという。地方の高官であったハンス・カール・フォン・カルロヴィッツの著書で述べられた保続的 (nachhaltende) が直接の語源とのこと。 サスティナブルとは,次世代への想いやりであり,大学での森林学においては,50 年先,100 年先,300 年先を見据えた視点での基礎教育がプログラムされているという。森林を支える重要な管理手法に択伐 (天然更新を活用した複層構造の森) があり,今日では,「選択間伐」そして継続的な管理,利用を可能とする「道」(多機能森林基幹道)の整備がなにより重要であるとした。 
第 2 章から第 4 章では,日本における森林管理に対する指南,多様性を維持する森林がもたらす多様な便益等について詳細に解説する。日本にはヨーロッパの専門家も羨む豊かで多様な森林が多く存在する。ただ,利用を支える 「道」がない。ドイツでは多くの人々が森林に入っている。人口 1,000 万人の州で 1 日平均 200 万人の人が森林に入っているという。多様性を備えた森林の魅力に加え,利用を可能にする「道」が整備されているからと解説する。 森林を原資とする地域経済のクラスターやマイスター制度を通じた人材育成については,豊富な取材や自らの経験を通じてこの魅力と効果を伝えてくれる。 
第 5 章「多様性のシンフォニー」では,森林とのかかわりから見出される多様性のもつメロディーについてさらに 掘り下げた考察を試みている。植物神経生物学の視点を織り交ぜつつ森林が私たちに語りかける言葉を読み解くとともに,「樹木にどう育てられたいか,聞きなさい」との視点が重要と教える。多様性を理解し,受け入れ,活用していくための所作である。日本からの視察者に対しては,「違いではなく,共通点を探すように」と伝えているという。 競争ではなく協調や協働が遥かに大きなモチベーションを人間に与えるはずだと。そして,制度,システム,技術を読み解くときには,これにかかわり影響を与えた人々の「想い」を感じ取ることが重要と説く。 
本書には,専門外であっても一気に読める,「なるほど!」が散りばめられている。また,本書から伝わる情報や想いは,持続可能な地域循環共生圏を目指すわれわれにとって大いに参考となると考えられる。著者にとって 25 年は折り返しである。次のゴールに向かって何を編むか,大変楽しみである。
(株)東和テクノロジー 友田 啓二郎

廃棄物資源循環学会誌 Vol. 32, No. 6, 2021

資本家のいない資本主義

資本主義市場で経済活動をする1企業形態としての「協同組合」の本質をついた言葉である。ドイツの近代の協同組合の父と言われるライフアイゼン生誕200年の2018年に、ドイツ協同組合・ライフアイゼン連合会が年次報告書でキャッチフレーズとして使った。

先日仕事で、旧東ドイツ・マグデブルク市のドイツ統一前から存在する集合住宅建設協同組合を訪れた。都市部の緑化事業をスタートするために。

80年代に東ベルリンのフンボルト大学で法学を学んだという組合の部長と半日、事業の話だけでなく、協同組合の哲学、マグデブルクの歴史や都市計画、文化、スポーツ、政治など、いろいろ話をして、とても濃縮した有意義な時間を過ごせた。通常のビジネスミーティングだと、必要なことだけ効率的にスパスパ話して終わりだが、私が古い建物に興味があると知ると、部長はいろいろ街を案内し、協同組合で賃貸している街中の感じのいいレストランで昼食もご馳走になった。持続的な人間関係の構築を目指す協同組合の精神を感じた。また彼も私も「仕事はお金だけでなく、やりがいがあり、楽しくもあるべきだ」という考えで同調した。「弁護士になることもできたけど、30年余り働いている今の職場でとても満足しているし、全く後悔していない」と彼は車を運転しながら語ってくれた。

協同組合の多様な事業も見せてもらった。旧東ドイツ時代のそっけない朽ちかけた集合住宅を「明るく」改修し、学生や庶民に社会的な家賃で貸すというメインの事業だけでなく、19世紀の荘厳な古建築を改修して、シックなオフィスやレストランとして貸したり、介護サービス付きの高齢者住宅やデイサービスセンターを開発、所有し、福祉団体に貸したり、多様な事業をやっている。

壁にサステイナブルのテーマで挑発的な絵を描くベルリンの芸術家との共同もしている。大きな集合住宅のファサードを、列ごとにマテリアルを変えたデザインにしたり。少し建設費が高くなっても、できるだけエコロジカルなマテリアルを利用するようにも努めている。賃貸人が「自分はXX通りの建物に住んでいる」でなく「鯨の絵が描いているところに住んでいる」「レンガのファサードの列の2階に住んでいる」とアイデンティティを持てるような配慮をしているという。協同組合の組織にも、他と同様に階層はあるが、実質はフラットで民主的。定期的に課やチームごとに朝食会を開催するなど、密なコミュニケーションと職場環境の改善に努めている。職員向けにサイクリングや自然観察会を企画してもいる。仕事の請負業者である私にも今回、普通のビジネス接待の3倍くらいの時間を取って、丁寧に接してくれた。

そのような努力や気くばりは基本的に、投下資本利益率を低くする。短期的な高利益を求める資本家や株主は、そういうモノや人や時間への投資は、できるだ抑えようとする。今回、私と仲間がサポートする緑化の事業もコストだけで、直接的な収益には繋がらない。

「理念や愛情だけでは飯は食えないよ」

厳しい競争がある資本主義市場経済の中で戦っている経営者やマネージャーからは、そういう言葉もよく聞く。でも、果たして全てそうだろうか? 

マクデブルクの集合住宅建設協同組合では、賃貸人の入れ替わりがとても少ない。約6200人の賃貸人は、学生も年金生活者も、弁護士事務所も歯医者も、みんな同等な1人一票の決定権をもつ組合人。職員は約180人だそうだが、こちらも入れ替わりがとても少ないそうだ。給与待遇は平均以上だが、それだけでない。会社の雰囲気がよく、仕事にやりがいを持っている職員が多いことの表れだ。部長は「競合他社に移るような職員は、幸運なことに今までほとんどない」と言う。人が定着しているということは、それだけストレスや時間の浪費が少ないことになる。「信頼は効率」という私が好きな言葉がある。信頼はトランスアクションコストを少なくする。信頼関係をベースに、個々人が、階層を気にすることなく個性を発揮できる環境は、イノベーションを産む。信頼はでも、構築するのも、維持するのも、絶え間ない努力と気くばりが必要である。

このような経営ができるのは、大きな資本家がいない協同組合に限らない。株式会社や有限会社でも、敢えて株式市場に上場をせずに、理念を持って経営し、地域に愛され、信頼される家族企業もある。長期的に理念が継続されるように、別の哲学を持った資本家に買収されないように、会社の資本を財団法人化している企業もある。

Anti-Discipline 専門の垣根を取り払う!

私は、岩手大学の人文社会科学部で学びました。哲学、文学、言語学、心理学、経済学、社会学、自然科学、情報処理学と、幅広い専門分野の授業を受けました。分野横断的な思考ができる人材の育成が目的の学部でした。盛岡での学生時代はスキーやアウトドアを楽しんで、それほど熱心に学問に打ち込みはしませんでしたが、多彩なカリキュラムに時々、刺激を受けました。

分野横断的なアプローチは、専門用語では「学際的(interdisciplinary)」と言います。1970年代以降、現代の環境社会問題が、様々な要素が絡み合う複合的なものであって、様々な分野が一緒になって解決する必要がある、という認識が広まり深まった結果、学際的なアプローチが提唱され、学部や研究チームなどが、世界中で設立されました。岩手大学の人文社会科学部もその流れの中で生まれたものです。

私は岩手大学卒業後、在学中のドイツ留学で気に入ったフライブルク市に再び戻り、フライブルク大学の森林学部に入学しました。森林学は、19世紀はじめにドイツで体系づけられた学問分野ですが、学際的なアプローチのパイオニアとも言えます。森をしっかりマネージメントするには、生物学、生理学、生態学、地質学、土壌学、地理学、統計学から、経済学、政治学、歴史学と、幅広い分野の基礎知識が必要で、それら広い観点から総合的にアプローチして、個々の措置を判断し実践していかなければなりません。そのための思考の訓練を、私は5年間、教室とフィールドで受けました。そこで得られた経験とノウハウは、コンサルタント、コーディネーター、文筆家としての日々の仕事でも、とても役に立っています。

しかし最近、Inter-disciplineとは違うAnti-disciplineという新しい概念、アプローチがあることを知りました。直訳すると「反専門性」です。でも、専門に反したり反対したりしていることではなく、各専門分野の垣根を取り払い、柔軟に分野「融合」的な思考することです。例えば物理学者が、心理学、社会学、宗教学のアプローチや知見を融合させた研究をすることです。Anti-discipline を日本語で「脱専門性」と訳されている方もいます。「学際性」を超越するアプローチなので、私もこちらの訳の方がしっくり来ます。

「学際的」なアプローチでは、自分の専門分野の規範やルールという垣根の中で生きる専門家が集い、それぞれの分野の知見を結びつけ・統合させることを試みます。いろんな専門分野の人たちが学際的に議論している中で、「私の専門ではないので…」という言葉がよく聞かれます。私も時々使います。これは自分が深く細かく知らない事柄への敬意であり、専門家としての謙遜の態度でが、自分の専門の領域に境界線を引いている、垣根をつくっていることでもあります。学際的なアプローチでは通常、自分の明確な守備範囲を持った各分野の専門家が、垣根越しにキャッチボールをします。様々な観点を結びつけること、統合することを目指していますが、そこにたどり着くための主な作業は、各専門家が自分の専門分野の手法で、物事を「区別」「分類」「分析」することです。

一方、「脱専門的」なアプローチでは、個々の専門家の明確な守備範囲も、専門の垣根もありません。意識的に垣根を取り払い、自由に動き、柔軟に発想します。「専門」という意識が取り払われることで、「私の専門でないので…」という言葉もほとんど出ません。「区別」「分類」「分析」という一般的な科学の思考よりも、「連関」「連想」「連結」のネットワーク思考が重視されます。

近代科学は、複合的な事象を「区別」「分類」「分析」することで発展しました。その科学の発展によって、私たちを取り巻く社会は、以前とは桁違いに複合的になりました。超複合的な現代社会の様々な事象や問題を理解し、解決するためには、古典的な科学のアプローチでは限界があります。

脱専門的アプローチを実践する科学者は、世界でもまだ少数ですが、ドイツで著名な「複合性理論」の研究者ディルク・ブロックマン(Dirk Brockmann)はその著書で、現代社会の問題を解決するために、ネットワーク思考が大切なことを主張しています:

「世界にあるほとんど全ての知識をみんながスマートフォンで持ち歩いている世の中では、私たちは動的な連関性の思考に集中することができる−−個々の専門性や知識のサイロに潜ることなしに」

私は分野「横断」的な教育と訓練を受けてきましたが、これからは、もっと柔軟に分野「融合」的な思考と仕事をしたいと思っています。科学と現場、理科系と哲学・文学・音楽を結びつけることを試みた拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、脱専門性は意識していませんでしたが、分野融合的な思考への序奏にもなっている気がしています。

『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
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権威ある林業経済学会誌で書評

昨年春に出版した拙著『多様性-人と森のサスティナブルな関係』は、業界関係者や専門家だけでなく、広く一般の人々に読んでもらえるように配慮して、エッセイ風に書いた本ですが、大変嬉しいことに、権威ある「林業経済学会」学会誌の書評で取り上げてもらえました。
https://www.jstage.jst.go.jp/…/8/74_26/_article/-char/ja/
書評の最初のページだけ、サンプルとして掲載されています。全文のダウンロードは、学会会員でないとできないようです。
書評を書かれたのは、ドイツとスウェーデンに留学経験をお持ちの東京大学大学院農学生命科学研究科の研究者:長坂健司さんです。
理系と文系の結びつき、科学と文学・哲学・音楽の結びつき、林業現場、行政、研究界、経済界、一般社会の結びつきを願って書いた本です。また、比較による分析、分類ではなく、統合と融合のアプローチを促進する意図もあります。そういう動きが生まれることを望んでいますし、日本の繊細な宝物「森」を守り、育て、活かすために、研究者の方々による支援も期待します。

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多様性〜人と森のサスティナブルな関係www.amazon.co.jp

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慶應大学の全労済協会寄付講座でオンラインレクチャー

先週、慶應大学の経済学部の約250名の学生向けに、オンラインで森林業の話をしました。全労済協会の寄付講座でした。

参加者の数では、私のオンラインセミナーの最高記録です。

拙著『多様性−人と森のサスティナブルな関係』を読まれた駒村康平教授から、昨年夏に依頼を受け、最終講義の回に当ててもらいました。

ドイツ時間、夜中の2時45分からの開始で、ホームオフィスの灯りをつけて、机に座って画面に向かって話す、という最近ときどきあるシチュエーションです。しーんと静まり返った真夜中にレクチャーするのは、ちょっとハイな気分になり、奇妙な感覚です。

多方面へ「気くばり」をする、生活、文化、経済と様々な相乗効果をもたらす森林業から、経済学部の学生だったので、デモクラシーの基盤である「尊厳」と「資本主義経済」の関係性、ニューロサイエンス(脳神経学)の知見からの人間社会のあり方まで話しました。

学生からは、森林業への質問が、時間内では答えきれないくらいたくさんありました。

駒村教授は、ニューロサイエンスのテーマで、もっと深く議論したいと仰っていただきました。

終わったのは朝4時。高山の友人で森林業のパートナー長瀬雅彦さんから数年前にいただいていた特別なウイスキー「Shivas Regal MIZUNARA Edition」を2フィンガーくらい飲んで、気持ちを鎮めてから床につきました。

昨年本を出してから、光栄なことに、様々な団体からオンラインレクチャーの問い合わせをいただいています。木材、建築、街づくり、再生可能エネルギー、レクリエーション、アウトドア、ドイツ文学、農学、経済学…と多様な分野の企業や団体や教育機関からです。森林業の「周縁分野」、専門外の方々が、日本の宝物である「森林」に高い関心を抱かれています。

残念ながら、コアである「森林」の関係団体や教育機関からは、これまでオンラインレクチャーの依頼がありません。生の交流、現場での研修を重視する風土がありますので、オンラインには積極的ではないのかもしれませんが、日本やドイツにて、みなさんと生の交流ができるまでは、あとしばらくかかりそうです。特に、これからの社会を担う若い学生や、第一線の現場で働かれている方々と交流したいと思っています。お気軽にお問合せください。

美はサステイナブル

ドイツの神学・哲学者J.Hartlの本に触発されて、建物の「美しさ」について、考えを巡らせています。

多くの古建築物は、市民も来訪客も、多くの人々を魅了し続けています。現代建築でも、人々の目を引き、感嘆させるものもありますが、人の目に留まらない、立ち止まって写真を撮ろうとは思わない建物が大半なのではないでしょうか?

J.Hartlは「 美は通常、よりサスティナブルだ」と主張しています。

大事に扱われ、現代まで大切に維持されている古い建物のデザインには、調和、愛情、スピリチュアリティの追求が感じられます。建築やインテリアデザインで「古」と「新」が隣り合わせ、もしくは組み合わせになっているものを、意識して写真に撮りました。また、過去に撮った写真の中からも、それらを探してみました。写真を比較すると、古い建築の美しさに敬意を払って、調和・融合しようとしている現代建築やインテリアデザインもあれば、違いを敢えて目立たたせている自己顕示欲が強い現代建築もあります。または、都市計画の規制に沿って、高さと壁面のラインだけある程度、既存の古建築に合わせれば、あとは関係ない、という印象を与えるものも。機能性やコストパフォーマンに還元された無機質なものが多い現代の建築物は、Form follows funktion。「スリムでカッコいい」という印象は与えても、Funktion follows beauty でつくられた昔の建物のような「温かさ」や「落ち着き」は与えてくれないものがほとんどです。後世にも愛され、補修され、維持されていく現代建築は、果たして、どれくらいあるのか?

人々が「心地よい」と感じる「美」がある街や空間は、統計学調査によると、傾向的に、コミュニティが活性化し、犯罪も少なくなり、持続可能な発想も生まれやすくなるそうです。

Funktion follow beauty。 美しさや温かかさは、資本主義市場経済の収益計算や決算には、ほとんど反映されません。でも、人々を魅了し続ける美しい古建築物は、長期に渡って、様々な富を多方面に与えています。「時は金なり」という言い回しは一般的ですが、「美は金なり」という言葉もあってもいいと思います。「美しさ」は、お金だけに還元すべきものではないですが。

「競争」より「協力」のコンセプトで

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち

岩手の偉人・宮沢賢治の代表的な詩の書き出し部分です。私は90年代前半、岩手大学に在学中、花巻市の宮沢賢治記念館やその他ゆかりの地を訪問し、いくつかの作品も読み、詩人、作家、科学者、宗教家と多彩な顔を持つ偉人に、自分なりに対面しました。

その対面の過程で、素直に吸収し、感銘できる部分と、何か受け入れられない、自分の心が抵抗する部分がありました。今でもそうです。宮沢賢治を敬愛する人たちには怒られるかもしれませんが、それを承知で、私の正直な見解を書くことから、この短い論考を始めます。

この有名な詩を印象付けている言葉は「負けず」です。宮沢賢治は、人間が、雨や風、雪や夏の暑さという物理的な気象現象に対抗して、勝つか負けるか、ということを表現しているのではありません。「負けず」とは比喩的な表現で、別の具体的な言葉に置き換えると「耐える」という意味になると思います。では何故に、宮沢賢治は、素直に「耐える」という表現ではなく、比喩的な「負けず」というフレーズを用いたのでしょうか? 

「勝ち負け」というのは、人間社会の古くからの関心事です。部族や地域・国の間で、「勝ち負け」に拘る争いや「競争」は、今日まで、絶え間なく続いています。家族や小さなグループの中でも、兄弟姉妹間の競争、同僚やライバル同士の競争があり、その結果として、勝者と敗者が生まれます。18世紀末から欧米で始まった産業革命以来、世界に拡散し浸透した資本主義市場経済は、人間社会の大きな関心事である「競争」を大きな原動力として動いています。19世紀半ばの産業革命の真っ只中で、世の中に大きな衝撃を与えたダーウィンの『種の起源』は、「Struggle for life(資源に対する生存競争)」による「Survival of fittest (最適者の生き残り)」を生物進化の原理であると説明しています。ダーウィンのこの「自然淘汰説」は、その後、多様な分野で誤解されたり、濫用されたりします。例えば、「強いものが生き残る(ダーウィンが言う「適者」は、必ずしも強い者ではありません)」という帝国主義をバックアップする考えや、ファシズムの「優生思想」などです。「競争」を経済発展の原動力とし、弱肉強食の世界を生む資本主義市場経済も、ダーウィンの進化論によって、人間生態学的に強力なバックアップを受けました。

宮沢賢治が生きたのは、欧米に追いつけ、欧米を追い越せ、と日本の近代化が急速に進んだ時代でした。近代化以前の日本の封建社会からあった「勝ち負け」の価値観や風土に、産業技術と一緒に「輸入」された資本主義市場経済の「競争」を美化する思想が加わり、融合・強化された時代です。宮沢賢治は、そのような時代の流れと風潮に疑問と不安を抱き、「注文の多い料理店」などで、やわらかい文明批判もしています。そして、日本の田舎に古くから息付く、自然を受け入れ、自然と調和した素朴な生き方、考え方を唱えた人です。その彼が何故、比喩的な使い方でありますが「負けず」という競争に関わる言葉をここで使ったのか、というところに、私が素直に受け入れられない理由、心の抵抗があります。ではこれが「耐える」という率直な表現だったらどうでしょうか? 私は正直、まだ抵抗があります。必ずしも「耐える」必要はないんじゃないか、と考えてしまいます。「耐える」は、ポジティブに捉えると「謙遜」や自然への「畏敬の念」かもしれませんが、私は何か「卑屈」なものを感じてしまいます。厳しい自然とその物理現象を素直に受け入れて、やり過ごしたり、技術的な措置で緩和したり、または逆に楽しんだりする心の持ち方のほうが、我慢して耐えるより、精神衛生上も健康で、サステイナブルじゃないかと。人間は昔からそういう知恵も技術も持っています。

ダーウィンは、画期的な理論を構築して世の中に発表し、近代科学と近代社会の発展に大きなインパクトを与えました。しかし彼は、「競争」という、自然界の原則の1側面だけに焦点を当て、現代科学が明らかにしているもう1つの側面である「協力(共生)」の原則を見落とししていました。いや、正確に言うと、ダーウィンは、生物界に「自然淘汰説」では説明できない「相互依存関係」「利他的行動」「同期化」などがあることを自覚していました。彼の進化論は、マクロの世界、すなわち人間の視力で確認できる事象の観察から導き出したものです。現代科学は、ダーウィンが観れなかったミクロの世界、動植物の腸や根の細胞で観察される無数の細菌・菌類との複合的な共生関係を明らかにしてきています。動植物に病的ダメージを与える「悪玉菌」もいますが、それらの感染を防御してくれる「善玉菌」や状況に応じて善玉にも悪玉にもなる「日和菌」の割合が遥かに多いことも確認されています。

現実の自然界は、「競争」よりも「協力」のほうに遙かに大きな重きを置いて機能し、進化しています。ダーウィニズムの「競争進化」より、「共生進化」の側面が遥かに大きいことがわかってきています。競争や搾取は、自然界の一側面ですが、人間も含め、多くの生物種にとっては、生物学的にいうと不得意分野です。企業や団体、グループの運営においても、「競争」より「協力」の原則を活用したほうが、上手くいきますし、雰囲気もよくなり、サステイナブルなイノベーションも生まれやすくなります。

孤高の木、家族や民族として生きる木々

自然を愛したヘルマン・ヘッセは、「木」という奥の深い詩を書いている。その詩は、次のフレーズで始まる。

「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている」

詩の全文はこちらから:
https://note.com/noriaki_ikeda/n/ndc0e30cbb3da

私が住むシュヴァルツヴァルトの草原や牧草地には、ヘッセがより尊敬する、ベートヴェンやニーチェのような孤独に強く生きる孤高の木がある。存在感があり、思わず写真を撮りたくなる。

でも、多くの樹木は、大きな森や小さな森として、民族や家族のように寄り添って生きている。人間と同じように、助け合いも競争もする仲間を必要としている。仲間から離れて1人孤独に生きる樹木も、実は1人ではない。土壌の中の無数の微生物や昆虫や鳥とつながって、支えられながら生きている。ベートヴェンやニーチェのような孤独で崇高な人間も、無数の腸内細菌や周りの動植物とのつながりと支えによって生きているのと同じように。

人間に例えたら幼い子供くらいなのに、孤立して植えられた、もしくは仲間から大きく間隔を開けて植えられた街路樹や公園の若木を見ると、悲しくなる。幼く自立できないから、木製や鉄製の保護柵で倒れないように保護されている。まだ柔らかく病害虫が入りやすい樹皮を白くペインティングしてあるものもある。とても惨めでかわいそうだ。彼らが植えられる場所は建設土木作業で圧縮された土壌が多いので、固いし、空気も少ないし、保水力も少ない。だから、日当たりはいいのに、成長が遅い場合がよくあるし、枯れないように頻繁に水やりが必要になる。

家族や民族として育つ樹木たちは、お互いに支え合って生きているので保護柵もペインティングも必要ない。みんなで根を張って土壌を耕し空気を入れ、土壌の小動物や微生物を増やし、保水力も高めるので、頻繁な水やりも必要ない。

私もベートーヴェンやニーチェのような偉大な孤高の人物を尊敬する。でも、ヴェートーベンのシンフォニーを演奏し合唱するオーケストラやコーラスに、より感動し、希望を感じる。そして、私たち人類が今、より必要としているのは、ニーチェのような1人の崇高な哲学者ではなく、個々の特性や能力で、共に未来を創造する、たくさんの多様な人々だと思う。

2021年春に出版した『多様性〜人と森のサステイナブルな関係』にも、シンフォニーを演奏し合唱する人たち、みんなで未来を創造する人たちを描いています。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3

フライブルクに革新的な木造高層住宅が!

地域FSC材、木造パネル構法、8階建。1階を除いて、エレベーターシャフトも階段室も、コンクリートを使わない、オール木構造。

1階にはスーパーと幼稚園が入り、2階以上は30世帯分の賃貸住宅。建主は、私もよく知っている、これまで数々の朽ちかけた古建築を経済的に社会福祉住宅や文化施設へアップビルディングしてきたW.スッター氏の不動産運営会社。施工は、シュヴァルツヴァルトの工務店Bruno Kaiser社。

図面や写真が紹介されているWeissenrieder設計事務所のウェブサイトをリンクします。

https://www.architekt-weissenrieder.de/projekte/wohn-und-geschaftshaus-bugginger-strasse-freiburg/

避難空間もオール木というのは前例がないので、消防関係など許可申請で調整に時間がかかったようですが、現場立ち上げは1週間。入居は、今年夏頃になるそうです。
建設場所は、1960〜70年代にできた社会福祉住宅の地区ワインガルテンの真ん中。ここにコンクリート建築とさほど変わらない値段で経済的な木造高層建築ができたこと、社会的な賃貸住宅として運営されていくことは、大きな意味があると思います。これから視察に来られる方々を案内したい物件です。