Anti-Discipline 専門の垣根を取り払う!

私は、岩手大学の人文社会科学部で学びました。哲学、文学、言語学、心理学、経済学、社会学、自然科学、情報処理学と、幅広い専門分野の授業を受けました。分野横断的な思考ができる人材の育成が目的の学部でした。盛岡での学生時代はスキーやアウトドアを楽しんで、それほど熱心に学問に打ち込みはしませんでしたが、多彩なカリキュラムに時々、刺激を受けました。

分野横断的なアプローチは、専門用語では「学際的(interdisciplinary)」と言います。1970年代以降、現代の環境社会問題が、様々な要素が絡み合う複合的なものであって、様々な分野が一緒になって解決する必要がある、という認識が広まり深まった結果、学際的なアプローチが提唱され、学部や研究チームなどが、世界中で設立されました。岩手大学の人文社会科学部もその流れの中で生まれたものです。

私は岩手大学卒業後、在学中のドイツ留学で気に入ったフライブルク市に再び戻り、フライブルク大学の森林学部に入学しました。森林学は、19世紀はじめにドイツで体系づけられた学問分野ですが、学際的なアプローチのパイオニアとも言えます。森をしっかりマネージメントするには、生物学、生理学、生態学、地質学、土壌学、地理学、統計学から、経済学、政治学、歴史学と、幅広い分野の基礎知識が必要で、それら広い観点から総合的にアプローチして、個々の措置を判断し実践していかなければなりません。そのための思考の訓練を、私は5年間、教室とフィールドで受けました。そこで得られた経験とノウハウは、コンサルタント、コーディネーター、文筆家としての日々の仕事でも、とても役に立っています。

しかし最近、Inter-disciplineとは違うAnti-disciplineという新しい概念、アプローチがあることを知りました。直訳すると「反専門性」です。でも、専門に反したり反対したりしていることではなく、各専門分野の垣根を取り払い、柔軟に分野「融合」的な思考することです。例えば物理学者が、心理学、社会学、宗教学のアプローチや知見を融合させた研究をすることです。Anti-discipline を日本語で「脱専門性」と訳されている方もいます。「学際性」を超越するアプローチなので、私もこちらの訳の方がしっくり来ます。

「学際的」なアプローチでは、自分の専門分野の規範やルールという垣根の中で生きる専門家が集い、それぞれの分野の知見を結びつけ・統合させることを試みます。いろんな専門分野の人たちが学際的に議論している中で、「私の専門ではないので…」という言葉がよく聞かれます。私も時々使います。これは自分が深く細かく知らない事柄への敬意であり、専門家としての謙遜の態度でが、自分の専門の領域に境界線を引いている、垣根をつくっていることでもあります。学際的なアプローチでは通常、自分の明確な守備範囲を持った各分野の専門家が、垣根越しにキャッチボールをします。様々な観点を結びつけること、統合することを目指していますが、そこにたどり着くための主な作業は、各専門家が自分の専門分野の手法で、物事を「区別」「分類」「分析」することです。

一方、「脱専門的」なアプローチでは、個々の専門家の明確な守備範囲も、専門の垣根もありません。意識的に垣根を取り払い、自由に動き、柔軟に発想します。「専門」という意識が取り払われることで、「私の専門でないので…」という言葉もほとんど出ません。「区別」「分類」「分析」という一般的な科学の思考よりも、「連関」「連想」「連結」のネットワーク思考が重視されます。

近代科学は、複合的な事象を「区別」「分類」「分析」することで発展しました。その科学の発展によって、私たちを取り巻く社会は、以前とは桁違いに複合的になりました。超複合的な現代社会の様々な事象や問題を理解し、解決するためには、古典的な科学のアプローチでは限界があります。

脱専門的アプローチを実践する科学者は、世界でもまだ少数ですが、ドイツで著名な「複合性理論」の研究者ディルク・ブロックマン(Dirk Brockmann)はその著書で、現代社会の問題を解決するために、ネットワーク思考が大切なことを主張しています:

「世界にあるほとんど全ての知識をみんながスマートフォンで持ち歩いている世の中では、私たちは動的な連関性の思考に集中することができる−−個々の専門性や知識のサイロに潜ることなしに」

私は分野「横断」的な教育と訓練を受けてきましたが、これからは、もっと柔軟に分野「融合」的な思考と仕事をしたいと思っています。科学と現場、理科系と哲学・文学・音楽を結びつけることを試みた拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、脱専門性は意識していませんでしたが、分野融合的な思考への序奏にもなっている気がしています。

『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
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権威ある林業経済学会誌で書評

昨年春に出版した拙著『多様性-人と森のサスティナブルな関係』は、業界関係者や専門家だけでなく、広く一般の人々に読んでもらえるように配慮して、エッセイ風に書いた本ですが、大変嬉しいことに、権威ある「林業経済学会」学会誌の書評で取り上げてもらえました。
https://www.jstage.jst.go.jp/…/8/74_26/_article/-char/ja/
書評の最初のページだけ、サンプルとして掲載されています。全文のダウンロードは、学会会員でないとできないようです。
書評を書かれたのは、ドイツとスウェーデンに留学経験をお持ちの東京大学大学院農学生命科学研究科の研究者:長坂健司さんです。
理系と文系の結びつき、科学と文学・哲学・音楽の結びつき、林業現場、行政、研究界、経済界、一般社会の結びつきを願って書いた本です。また、比較による分析、分類ではなく、統合と融合のアプローチを促進する意図もあります。そういう動きが生まれることを望んでいますし、日本の繊細な宝物「森」を守り、育て、活かすために、研究者の方々による支援も期待します。

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慶應大学の全労済協会寄付講座でオンラインレクチャー

先週、慶應大学の経済学部の約250名の学生向けに、オンラインで森林業の話をしました。全労済協会の寄付講座でした。

参加者の数では、私のオンラインセミナーの最高記録です。

拙著『多様性−人と森のサスティナブルな関係』を読まれた駒村康平教授から、昨年夏に依頼を受け、最終講義の回に当ててもらいました。

ドイツ時間、夜中の2時45分からの開始で、ホームオフィスの灯りをつけて、机に座って画面に向かって話す、という最近ときどきあるシチュエーションです。しーんと静まり返った真夜中にレクチャーするのは、ちょっとハイな気分になり、奇妙な感覚です。

多方面へ「気くばり」をする、生活、文化、経済と様々な相乗効果をもたらす森林業から、経済学部の学生だったので、デモクラシーの基盤である「尊厳」と「資本主義経済」の関係性、ニューロサイエンス(脳神経学)の知見からの人間社会のあり方まで話しました。

学生からは、森林業への質問が、時間内では答えきれないくらいたくさんありました。

駒村教授は、ニューロサイエンスのテーマで、もっと深く議論したいと仰っていただきました。

終わったのは朝4時。高山の友人で森林業のパートナー長瀬雅彦さんから数年前にいただいていた特別なウイスキー「Shivas Regal MIZUNARA Edition」を2フィンガーくらい飲んで、気持ちを鎮めてから床につきました。

昨年本を出してから、光栄なことに、様々な団体からオンラインレクチャーの問い合わせをいただいています。木材、建築、街づくり、再生可能エネルギー、レクリエーション、アウトドア、ドイツ文学、農学、経済学…と多様な分野の企業や団体や教育機関からです。森林業の「周縁分野」、専門外の方々が、日本の宝物である「森林」に高い関心を抱かれています。

残念ながら、コアである「森林」の関係団体や教育機関からは、これまでオンラインレクチャーの依頼がありません。生の交流、現場での研修を重視する風土がありますので、オンラインには積極的ではないのかもしれませんが、日本やドイツにて、みなさんと生の交流ができるまでは、あとしばらくかかりそうです。特に、これからの社会を担う若い学生や、第一線の現場で働かれている方々と交流したいと思っています。お気軽にお問合せください。

美はサステイナブル

ドイツの神学・哲学者J.Hartlの本に触発されて、建物の「美しさ」について、考えを巡らせています。

多くの古建築物は、市民も来訪客も、多くの人々を魅了し続けています。現代建築でも、人々の目を引き、感嘆させるものもありますが、人の目に留まらない、立ち止まって写真を撮ろうとは思わない建物が大半なのではないでしょうか?

J.Hartlは「 美は通常、よりサスティナブルだ」と主張しています。

大事に扱われ、現代まで大切に維持されている古い建物のデザインには、調和、愛情、スピリチュアリティの追求が感じられます。建築やインテリアデザインで「古」と「新」が隣り合わせ、もしくは組み合わせになっているものを、意識して写真に撮りました。また、過去に撮った写真の中からも、それらを探してみました。写真を比較すると、古い建築の美しさに敬意を払って、調和・融合しようとしている現代建築やインテリアデザインもあれば、違いを敢えて目立たたせている自己顕示欲が強い現代建築もあります。または、都市計画の規制に沿って、高さと壁面のラインだけある程度、既存の古建築に合わせれば、あとは関係ない、という印象を与えるものも。機能性やコストパフォーマンに還元された無機質なものが多い現代の建築物は、Form follows funktion。「スリムでカッコいい」という印象は与えても、Funktion follows beauty でつくられた昔の建物のような「温かさ」や「落ち着き」は与えてくれないものがほとんどです。後世にも愛され、補修され、維持されていく現代建築は、果たして、どれくらいあるのか?

人々が「心地よい」と感じる「美」がある街や空間は、統計学調査によると、傾向的に、コミュニティが活性化し、犯罪も少なくなり、持続可能な発想も生まれやすくなるそうです。

Funktion follow beauty。 美しさや温かかさは、資本主義市場経済の収益計算や決算には、ほとんど反映されません。でも、人々を魅了し続ける美しい古建築物は、長期に渡って、様々な富を多方面に与えています。「時は金なり」という言い回しは一般的ですが、「美は金なり」という言葉もあってもいいと思います。「美しさ」は、お金だけに還元すべきものではないですが。

「競争」より「協力」のコンセプトで

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち

岩手の偉人・宮沢賢治の代表的な詩の書き出し部分です。私は90年代前半、岩手大学に在学中、花巻市の宮沢賢治記念館やその他ゆかりの地を訪問し、いくつかの作品も読み、詩人、作家、科学者、宗教家と多彩な顔を持つ偉人に、自分なりに対面しました。

その対面の過程で、素直に吸収し、感銘できる部分と、何か受け入れられない、自分の心が抵抗する部分がありました。今でもそうです。宮沢賢治を敬愛する人たちには怒られるかもしれませんが、それを承知で、私の正直な見解を書くことから、この短い論考を始めます。

この有名な詩を印象付けている言葉は「負けず」です。宮沢賢治は、人間が、雨や風、雪や夏の暑さという物理的な気象現象に対抗して、勝つか負けるか、ということを表現しているのではありません。「負けず」とは比喩的な表現で、別の具体的な言葉に置き換えると「耐える」という意味になると思います。では何故に、宮沢賢治は、素直に「耐える」という表現ではなく、比喩的な「負けず」というフレーズを用いたのでしょうか? 

「勝ち負け」というのは、人間社会の古くからの関心事です。部族や地域・国の間で、「勝ち負け」に拘る争いや「競争」は、今日まで、絶え間なく続いています。家族や小さなグループの中でも、兄弟姉妹間の競争、同僚やライバル同士の競争があり、その結果として、勝者と敗者が生まれます。18世紀末から欧米で始まった産業革命以来、世界に拡散し浸透した資本主義市場経済は、人間社会の大きな関心事である「競争」を大きな原動力として動いています。19世紀半ばの産業革命の真っ只中で、世の中に大きな衝撃を与えたダーウィンの『種の起源』は、「Struggle for life(資源に対する生存競争)」による「Survival of fittest (最適者の生き残り)」を生物進化の原理であると説明しています。ダーウィンのこの「自然淘汰説」は、その後、多様な分野で誤解されたり、濫用されたりします。例えば、「強いものが生き残る(ダーウィンが言う「適者」は、必ずしも強い者ではありません)」という帝国主義をバックアップする考えや、ファシズムの「優生思想」などです。「競争」を経済発展の原動力とし、弱肉強食の世界を生む資本主義市場経済も、ダーウィンの進化論によって、人間生態学的に強力なバックアップを受けました。

宮沢賢治が生きたのは、欧米に追いつけ、欧米を追い越せ、と日本の近代化が急速に進んだ時代でした。近代化以前の日本の封建社会からあった「勝ち負け」の価値観や風土に、産業技術と一緒に「輸入」された資本主義市場経済の「競争」を美化する思想が加わり、融合・強化された時代です。宮沢賢治は、そのような時代の流れと風潮に疑問と不安を抱き、「注文の多い料理店」などで、やわらかい文明批判もしています。そして、日本の田舎に古くから息付く、自然を受け入れ、自然と調和した素朴な生き方、考え方を唱えた人です。その彼が何故、比喩的な使い方でありますが「負けず」という競争に関わる言葉をここで使ったのか、というところに、私が素直に受け入れられない理由、心の抵抗があります。ではこれが「耐える」という率直な表現だったらどうでしょうか? 私は正直、まだ抵抗があります。必ずしも「耐える」必要はないんじゃないか、と考えてしまいます。「耐える」は、ポジティブに捉えると「謙遜」や自然への「畏敬の念」かもしれませんが、私は何か「卑屈」なものを感じてしまいます。厳しい自然とその物理現象を素直に受け入れて、やり過ごしたり、技術的な措置で緩和したり、または逆に楽しんだりする心の持ち方のほうが、我慢して耐えるより、精神衛生上も健康で、サステイナブルじゃないかと。人間は昔からそういう知恵も技術も持っています。

ダーウィンは、画期的な理論を構築して世の中に発表し、近代科学と近代社会の発展に大きなインパクトを与えました。しかし彼は、「競争」という、自然界の原則の1側面だけに焦点を当て、現代科学が明らかにしているもう1つの側面である「協力(共生)」の原則を見落とししていました。いや、正確に言うと、ダーウィンは、生物界に「自然淘汰説」では説明できない「相互依存関係」「利他的行動」「同期化」などがあることを自覚していました。彼の進化論は、マクロの世界、すなわち人間の視力で確認できる事象の観察から導き出したものです。現代科学は、ダーウィンが観れなかったミクロの世界、動植物の腸や根の細胞で観察される無数の細菌・菌類との複合的な共生関係を明らかにしてきています。動植物に病的ダメージを与える「悪玉菌」もいますが、それらの感染を防御してくれる「善玉菌」や状況に応じて善玉にも悪玉にもなる「日和菌」の割合が遥かに多いことも確認されています。

現実の自然界は、「競争」よりも「協力」のほうに遙かに大きな重きを置いて機能し、進化しています。ダーウィニズムの「競争進化」より、「共生進化」の側面が遥かに大きいことがわかってきています。競争や搾取は、自然界の一側面ですが、人間も含め、多くの生物種にとっては、生物学的にいうと不得意分野です。企業や団体、グループの運営においても、「競争」より「協力」の原則を活用したほうが、上手くいきますし、雰囲気もよくなり、サステイナブルなイノベーションも生まれやすくなります。