資本家のいない資本主義

資本主義市場で経済活動をする1企業形態としての「協同組合」の本質をついた言葉である。ドイツの近代の協同組合の父と言われるライフアイゼン生誕200年の2018年に、ドイツ協同組合・ライフアイゼン連合会が年次報告書でキャッチフレーズとして使った。

先日仕事で、旧東ドイツ・マグデブルク市のドイツ統一前から存在する集合住宅建設協同組合を訪れた。都市部の緑化事業をスタートするために。

80年代に東ベルリンのフンボルト大学で法学を学んだという組合の部長と半日、事業の話だけでなく、協同組合の哲学、マグデブルクの歴史や都市計画、文化、スポーツ、政治など、いろいろ話をして、とても濃縮した有意義な時間を過ごせた。通常のビジネスミーティングだと、必要なことだけ効率的にスパスパ話して終わりだが、私が古い建物に興味があると知ると、部長はいろいろ街を案内し、協同組合で賃貸している街中の感じのいいレストランで昼食もご馳走になった。持続的な人間関係の構築を目指す協同組合の精神を感じた。また彼も私も「仕事はお金だけでなく、やりがいがあり、楽しくもあるべきだ」という考えで同調した。「弁護士になることもできたけど、30年余り働いている今の職場でとても満足しているし、全く後悔していない」と彼は車を運転しながら語ってくれた。

協同組合の多様な事業も見せてもらった。旧東ドイツ時代のそっけない朽ちかけた集合住宅を「明るく」改修し、学生や庶民に社会的な家賃で貸すというメインの事業だけでなく、19世紀の荘厳な古建築を改修して、シックなオフィスやレストランとして貸したり、介護サービス付きの高齢者住宅やデイサービスセンターを開発、所有し、福祉団体に貸したり、多様な事業をやっている。

壁にサステイナブルのテーマで挑発的な絵を描くベルリンの芸術家との共同もしている。大きな集合住宅のファサードを、列ごとにマテリアルを変えたデザインにしたり。少し建設費が高くなっても、できるだけエコロジカルなマテリアルを利用するようにも努めている。賃貸人が「自分はXX通りの建物に住んでいる」でなく「鯨の絵が描いているところに住んでいる」「レンガのファサードの列の2階に住んでいる」とアイデンティティを持てるような配慮をしているという。協同組合の組織にも、他と同様に階層はあるが、実質はフラットで民主的。定期的に課やチームごとに朝食会を開催するなど、密なコミュニケーションと職場環境の改善に努めている。職員向けにサイクリングや自然観察会を企画してもいる。仕事の請負業者である私にも今回、普通のビジネス接待の3倍くらいの時間を取って、丁寧に接してくれた。

そのような努力や気くばりは基本的に、投下資本利益率を低くする。短期的な高利益を求める資本家や株主は、そういうモノや人や時間への投資は、できるだ抑えようとする。今回、私と仲間がサポートする緑化の事業もコストだけで、直接的な収益には繋がらない。

「理念や愛情だけでは飯は食えないよ」

厳しい競争がある資本主義市場経済の中で戦っている経営者やマネージャーからは、そういう言葉もよく聞く。でも、果たして全てそうだろうか? 

マクデブルクの集合住宅建設協同組合では、賃貸人の入れ替わりがとても少ない。約6200人の賃貸人は、学生も年金生活者も、弁護士事務所も歯医者も、みんな同等な1人一票の決定権をもつ組合人。職員は約180人だそうだが、こちらも入れ替わりがとても少ないそうだ。給与待遇は平均以上だが、それだけでない。会社の雰囲気がよく、仕事にやりがいを持っている職員が多いことの表れだ。部長は「競合他社に移るような職員は、幸運なことに今までほとんどない」と言う。人が定着しているということは、それだけストレスや時間の浪費が少ないことになる。「信頼は効率」という私が好きな言葉がある。信頼はトランスアクションコストを少なくする。信頼関係をベースに、個々人が、階層を気にすることなく個性を発揮できる環境は、イノベーションを産む。信頼はでも、構築するのも、維持するのも、絶え間ない努力と気くばりが必要である。

このような経営ができるのは、大きな資本家がいない協同組合に限らない。株式会社や有限会社でも、敢えて株式市場に上場をせずに、理念を持って経営し、地域に愛され、信頼される家族企業もある。長期的に理念が継続されるように、別の哲学を持った資本家に買収されないように、会社の資本を財団法人化している企業もある。

Anti-Discipline 専門の垣根を取り払う!

私は、岩手大学の人文社会科学部で学びました。哲学、文学、言語学、心理学、経済学、社会学、自然科学、情報処理学と、幅広い専門分野の授業を受けました。分野横断的な思考ができる人材の育成が目的の学部でした。盛岡での学生時代はスキーやアウトドアを楽しんで、それほど熱心に学問に打ち込みはしませんでしたが、多彩なカリキュラムに時々、刺激を受けました。

分野横断的なアプローチは、専門用語では「学際的(interdisciplinary)」と言います。1970年代以降、現代の環境社会問題が、様々な要素が絡み合う複合的なものであって、様々な分野が一緒になって解決する必要がある、という認識が広まり深まった結果、学際的なアプローチが提唱され、学部や研究チームなどが、世界中で設立されました。岩手大学の人文社会科学部もその流れの中で生まれたものです。

私は岩手大学卒業後、在学中のドイツ留学で気に入ったフライブルク市に再び戻り、フライブルク大学の森林学部に入学しました。森林学は、19世紀はじめにドイツで体系づけられた学問分野ですが、学際的なアプローチのパイオニアとも言えます。森をしっかりマネージメントするには、生物学、生理学、生態学、地質学、土壌学、地理学、統計学から、経済学、政治学、歴史学と、幅広い分野の基礎知識が必要で、それら広い観点から総合的にアプローチして、個々の措置を判断し実践していかなければなりません。そのための思考の訓練を、私は5年間、教室とフィールドで受けました。そこで得られた経験とノウハウは、コンサルタント、コーディネーター、文筆家としての日々の仕事でも、とても役に立っています。

しかし最近、Inter-disciplineとは違うAnti-disciplineという新しい概念、アプローチがあることを知りました。直訳すると「反専門性」です。でも、専門に反したり反対したりしていることではなく、各専門分野の垣根を取り払い、柔軟に分野「融合」的な思考することです。例えば物理学者が、心理学、社会学、宗教学のアプローチや知見を融合させた研究をすることです。Anti-discipline を日本語で「脱専門性」と訳されている方もいます。「学際性」を超越するアプローチなので、私もこちらの訳の方がしっくり来ます。

「学際的」なアプローチでは、自分の専門分野の規範やルールという垣根の中で生きる専門家が集い、それぞれの分野の知見を結びつけ・統合させることを試みます。いろんな専門分野の人たちが学際的に議論している中で、「私の専門ではないので…」という言葉がよく聞かれます。私も時々使います。これは自分が深く細かく知らない事柄への敬意であり、専門家としての謙遜の態度でが、自分の専門の領域に境界線を引いている、垣根をつくっていることでもあります。学際的なアプローチでは通常、自分の明確な守備範囲を持った各分野の専門家が、垣根越しにキャッチボールをします。様々な観点を結びつけること、統合することを目指していますが、そこにたどり着くための主な作業は、各専門家が自分の専門分野の手法で、物事を「区別」「分類」「分析」することです。

一方、「脱専門的」なアプローチでは、個々の専門家の明確な守備範囲も、専門の垣根もありません。意識的に垣根を取り払い、自由に動き、柔軟に発想します。「専門」という意識が取り払われることで、「私の専門でないので…」という言葉もほとんど出ません。「区別」「分類」「分析」という一般的な科学の思考よりも、「連関」「連想」「連結」のネットワーク思考が重視されます。

近代科学は、複合的な事象を「区別」「分類」「分析」することで発展しました。その科学の発展によって、私たちを取り巻く社会は、以前とは桁違いに複合的になりました。超複合的な現代社会の様々な事象や問題を理解し、解決するためには、古典的な科学のアプローチでは限界があります。

脱専門的アプローチを実践する科学者は、世界でもまだ少数ですが、ドイツで著名な「複合性理論」の研究者ディルク・ブロックマン(Dirk Brockmann)はその著書で、現代社会の問題を解決するために、ネットワーク思考が大切なことを主張しています:

「世界にあるほとんど全ての知識をみんながスマートフォンで持ち歩いている世の中では、私たちは動的な連関性の思考に集中することができる−−個々の専門性や知識のサイロに潜ることなしに」

私は分野「横断」的な教育と訓練を受けてきましたが、これからは、もっと柔軟に分野「融合」的な思考と仕事をしたいと思っています。科学と現場、理科系と哲学・文学・音楽を結びつけることを試みた拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、脱専門性は意識していませんでしたが、分野融合的な思考への序奏にもなっている気がしています。

『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
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慶應大学の全労済協会寄付講座でオンラインレクチャー

先週、慶應大学の経済学部の約250名の学生向けに、オンラインで森林業の話をしました。全労済協会の寄付講座でした。

参加者の数では、私のオンラインセミナーの最高記録です。

拙著『多様性−人と森のサスティナブルな関係』を読まれた駒村康平教授から、昨年夏に依頼を受け、最終講義の回に当ててもらいました。

ドイツ時間、夜中の2時45分からの開始で、ホームオフィスの灯りをつけて、机に座って画面に向かって話す、という最近ときどきあるシチュエーションです。しーんと静まり返った真夜中にレクチャーするのは、ちょっとハイな気分になり、奇妙な感覚です。

多方面へ「気くばり」をする、生活、文化、経済と様々な相乗効果をもたらす森林業から、経済学部の学生だったので、デモクラシーの基盤である「尊厳」と「資本主義経済」の関係性、ニューロサイエンス(脳神経学)の知見からの人間社会のあり方まで話しました。

学生からは、森林業への質問が、時間内では答えきれないくらいたくさんありました。

駒村教授は、ニューロサイエンスのテーマで、もっと深く議論したいと仰っていただきました。

終わったのは朝4時。高山の友人で森林業のパートナー長瀬雅彦さんから数年前にいただいていた特別なウイスキー「Shivas Regal MIZUNARA Edition」を2フィンガーくらい飲んで、気持ちを鎮めてから床につきました。

昨年本を出してから、光栄なことに、様々な団体からオンラインレクチャーの問い合わせをいただいています。木材、建築、街づくり、再生可能エネルギー、レクリエーション、アウトドア、ドイツ文学、農学、経済学…と多様な分野の企業や団体や教育機関からです。森林業の「周縁分野」、専門外の方々が、日本の宝物である「森林」に高い関心を抱かれています。

残念ながら、コアである「森林」の関係団体や教育機関からは、これまでオンラインレクチャーの依頼がありません。生の交流、現場での研修を重視する風土がありますので、オンラインには積極的ではないのかもしれませんが、日本やドイツにて、みなさんと生の交流ができるまでは、あとしばらくかかりそうです。特に、これからの社会を担う若い学生や、第一線の現場で働かれている方々と交流したいと思っています。お気軽にお問合せください。

美はサステイナブル

ドイツの神学・哲学者J.Hartlの本に触発されて、建物の「美しさ」について、考えを巡らせています。

多くの古建築物は、市民も来訪客も、多くの人々を魅了し続けています。現代建築でも、人々の目を引き、感嘆させるものもありますが、人の目に留まらない、立ち止まって写真を撮ろうとは思わない建物が大半なのではないでしょうか?

J.Hartlは「 美は通常、よりサスティナブルだ」と主張しています。

大事に扱われ、現代まで大切に維持されている古い建物のデザインには、調和、愛情、スピリチュアリティの追求が感じられます。建築やインテリアデザインで「古」と「新」が隣り合わせ、もしくは組み合わせになっているものを、意識して写真に撮りました。また、過去に撮った写真の中からも、それらを探してみました。写真を比較すると、古い建築の美しさに敬意を払って、調和・融合しようとしている現代建築やインテリアデザインもあれば、違いを敢えて目立たたせている自己顕示欲が強い現代建築もあります。または、都市計画の規制に沿って、高さと壁面のラインだけある程度、既存の古建築に合わせれば、あとは関係ない、という印象を与えるものも。機能性やコストパフォーマンに還元された無機質なものが多い現代の建築物は、Form follows funktion。「スリムでカッコいい」という印象は与えても、Funktion follows beauty でつくられた昔の建物のような「温かさ」や「落ち着き」は与えてくれないものがほとんどです。後世にも愛され、補修され、維持されていく現代建築は、果たして、どれくらいあるのか?

人々が「心地よい」と感じる「美」がある街や空間は、統計学調査によると、傾向的に、コミュニティが活性化し、犯罪も少なくなり、持続可能な発想も生まれやすくなるそうです。

Funktion follow beauty。 美しさや温かかさは、資本主義市場経済の収益計算や決算には、ほとんど反映されません。でも、人々を魅了し続ける美しい古建築物は、長期に渡って、様々な富を多方面に与えています。「時は金なり」という言い回しは一般的ですが、「美は金なり」という言葉もあってもいいと思います。「美しさ」は、お金だけに還元すべきものではないですが。

「競争」より「協力」のコンセプトで

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち

岩手の偉人・宮沢賢治の代表的な詩の書き出し部分です。私は90年代前半、岩手大学に在学中、花巻市の宮沢賢治記念館やその他ゆかりの地を訪問し、いくつかの作品も読み、詩人、作家、科学者、宗教家と多彩な顔を持つ偉人に、自分なりに対面しました。

その対面の過程で、素直に吸収し、感銘できる部分と、何か受け入れられない、自分の心が抵抗する部分がありました。今でもそうです。宮沢賢治を敬愛する人たちには怒られるかもしれませんが、それを承知で、私の正直な見解を書くことから、この短い論考を始めます。

この有名な詩を印象付けている言葉は「負けず」です。宮沢賢治は、人間が、雨や風、雪や夏の暑さという物理的な気象現象に対抗して、勝つか負けるか、ということを表現しているのではありません。「負けず」とは比喩的な表現で、別の具体的な言葉に置き換えると「耐える」という意味になると思います。では何故に、宮沢賢治は、素直に「耐える」という表現ではなく、比喩的な「負けず」というフレーズを用いたのでしょうか? 

「勝ち負け」というのは、人間社会の古くからの関心事です。部族や地域・国の間で、「勝ち負け」に拘る争いや「競争」は、今日まで、絶え間なく続いています。家族や小さなグループの中でも、兄弟姉妹間の競争、同僚やライバル同士の競争があり、その結果として、勝者と敗者が生まれます。18世紀末から欧米で始まった産業革命以来、世界に拡散し浸透した資本主義市場経済は、人間社会の大きな関心事である「競争」を大きな原動力として動いています。19世紀半ばの産業革命の真っ只中で、世の中に大きな衝撃を与えたダーウィンの『種の起源』は、「Struggle for life(資源に対する生存競争)」による「Survival of fittest (最適者の生き残り)」を生物進化の原理であると説明しています。ダーウィンのこの「自然淘汰説」は、その後、多様な分野で誤解されたり、濫用されたりします。例えば、「強いものが生き残る(ダーウィンが言う「適者」は、必ずしも強い者ではありません)」という帝国主義をバックアップする考えや、ファシズムの「優生思想」などです。「競争」を経済発展の原動力とし、弱肉強食の世界を生む資本主義市場経済も、ダーウィンの進化論によって、人間生態学的に強力なバックアップを受けました。

宮沢賢治が生きたのは、欧米に追いつけ、欧米を追い越せ、と日本の近代化が急速に進んだ時代でした。近代化以前の日本の封建社会からあった「勝ち負け」の価値観や風土に、産業技術と一緒に「輸入」された資本主義市場経済の「競争」を美化する思想が加わり、融合・強化された時代です。宮沢賢治は、そのような時代の流れと風潮に疑問と不安を抱き、「注文の多い料理店」などで、やわらかい文明批判もしています。そして、日本の田舎に古くから息付く、自然を受け入れ、自然と調和した素朴な生き方、考え方を唱えた人です。その彼が何故、比喩的な使い方でありますが「負けず」という競争に関わる言葉をここで使ったのか、というところに、私が素直に受け入れられない理由、心の抵抗があります。ではこれが「耐える」という率直な表現だったらどうでしょうか? 私は正直、まだ抵抗があります。必ずしも「耐える」必要はないんじゃないか、と考えてしまいます。「耐える」は、ポジティブに捉えると「謙遜」や自然への「畏敬の念」かもしれませんが、私は何か「卑屈」なものを感じてしまいます。厳しい自然とその物理現象を素直に受け入れて、やり過ごしたり、技術的な措置で緩和したり、または逆に楽しんだりする心の持ち方のほうが、我慢して耐えるより、精神衛生上も健康で、サステイナブルじゃないかと。人間は昔からそういう知恵も技術も持っています。

ダーウィンは、画期的な理論を構築して世の中に発表し、近代科学と近代社会の発展に大きなインパクトを与えました。しかし彼は、「競争」という、自然界の原則の1側面だけに焦点を当て、現代科学が明らかにしているもう1つの側面である「協力(共生)」の原則を見落とししていました。いや、正確に言うと、ダーウィンは、生物界に「自然淘汰説」では説明できない「相互依存関係」「利他的行動」「同期化」などがあることを自覚していました。彼の進化論は、マクロの世界、すなわち人間の視力で確認できる事象の観察から導き出したものです。現代科学は、ダーウィンが観れなかったミクロの世界、動植物の腸や根の細胞で観察される無数の細菌・菌類との複合的な共生関係を明らかにしてきています。動植物に病的ダメージを与える「悪玉菌」もいますが、それらの感染を防御してくれる「善玉菌」や状況に応じて善玉にも悪玉にもなる「日和菌」の割合が遥かに多いことも確認されています。

現実の自然界は、「競争」よりも「協力」のほうに遙かに大きな重きを置いて機能し、進化しています。ダーウィニズムの「競争進化」より、「共生進化」の側面が遥かに大きいことがわかってきています。競争や搾取は、自然界の一側面ですが、人間も含め、多くの生物種にとっては、生物学的にいうと不得意分野です。企業や団体、グループの運営においても、「競争」より「協力」の原則を活用したほうが、上手くいきますし、雰囲気もよくなり、サステイナブルなイノベーションも生まれやすくなります。

「となりのパラダイス」は、サバンナと密林だった!

今、ドイツの著名な哲学・神学者でベストセラー作家ヨハネス・ハルトルの新刊『エデン・カルチャー』を読み始めました。「人間らしさ」に希望を託した未来のビジョンが書かれた本です。SDGsでは主に、人間が地球に与えるインパクト「人間のエコロジー」がテーマになっていますが、ハルトルは、人間のエコロジーを超える「心のエコロジー」を提唱しています。心のエコロジーは機械にはない「人間らしさ」で、1)結びつき、2)意義 3)美意識から成り、それは、彼によれば、身近にもある「楽園(エデン)」に存在するものです。

序章で、「エデン(=パラダイス)」の記述があります。現代人の大半が頭に描くパラダイズは、草原に樹木がまばらに立っていて、川や湖がある風景だそうです。田園風景もこれに近いものです。人間のこの「好み」は、人類ホモ・サピエンスが誕生し、長い間、生活していたアフリカのサバンナの風景から来ている、という説が紹介されています。

夕方、その箇所を読んだ後、マウンテンバイクで外へ出かけました。私が「身近なパラダイス」と呼んでいる、すぐ「となり」にある牧歌的な風景の中へ。住民だけでなく、たくさんの来訪者の心を和ませるシュヴァルツヴァルトの里山景観です。拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』の4章に記述しています。
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開けた谷間の坂道を登りながら、ここにサバンナの要素があることに、はじめて気付きました。緑の牧草地とそこにまばらに点在する果樹です。牧草地の上に被さるようにして森もあります。人類の遠い祖先は、サバンナに出てくる前は、密林の樹上で長い間、生活していました。だから、森林の中の風景も、おそらく、人間の遠い記憶の中に刻まれている楽園であって、いくつかの書籍では、それが森林浴の精神医学的効果の一つの要因として挙げられています。

街の郊外の住宅地に住む私たち家族が、徒歩5分、自転車だと1分でたどり着ける「となりのパラダイス」は、人類の遠い記憶に刻まれている「サバンナ」と「密林」という2つのタイプの楽園が並存している、とても贅沢なところなんだと、認識を改めました。

田んぼと畑と草地と森からなる日本の田舎の里山景観も、人間の生活文化が造った、類似の贅沢なパラダイスですよね。人々の、自然と調和した生活があって初めて維持される文化景観であることも、同じです。

ベーシックが大切

フォレストジャーナルに頼まれて、ドイツの森林業で、川上と川下を繋ぐキーマンであるフォレスターの記事を書きました。
https://forest-journal.jp/market/31805/

1)質の高い森林調査と整理されたデータ、
2)持続的な素材生産計画、そして、
3)現場や所有者の状況を隅々まで把握する異動が基本ないフォレスターの「頭脳コンピューター」の大切さを、
とりわけ強調しました。
日本では、四半世紀前から「高性能林業機械」、ここ数年は「スマート林業」「異業種参入」などアピールされていますが、それらの魅力的に聞こえる「ツール」も、上記の3つのベースに加え、4)質の高い道のインフラと、5)人を育てる教育システム、という基盤があって初めて、その性能が発揮されます。
私は、何事もベーシックが大切だと思います。ベーシックは目立たないし、見新しくないし、単年度という組織の都合や、政策決定者の短い任期内では、目に見える成果は上げられないことが大半なので、抜本的な議論や長期的なビジョンの構築と実践は、やりにくい構造ですが、やるべきことだと思います。
それから、記事の最後に書いていますが、その職業を学ぶ人間、それに従事する人間にモチベーション与える「ロマン」も大切だと。

https://forest-journal.jp/market/31805/

「人新世の資本論」を読んで、ヘッセとマルクスが繋がった

昨年から話題になっている斎藤幸平氏の「人新世の資本論」。序文にて「SDGsは大衆のアヘンである」と、市民の身近な環境行動を非生産的なものとして批判している、ということを、知人のブログで半年くらい前に読んだ。個々人の身近な行動が、意識の広がりを生み、最終的に社会を動かす力にもなっていくポテンシャルもある、という考えを私は持っているので、反発があった。また、多くの読者がこの本を手に取る前に思ったであろう「なぜ今さらマルクス?」という疑問もあった。だからしばらくの間、取り立てて読もうとも思わなかった。でも多くの読者を魅了し、力を与えている本のようなので、その真相を、他の人の書評でなく、自分自身で確かめたいという思いもあり、最近購入して読んでみた。

SDGsには、義務規制も、統一的な査定や認証の仕組みもないので、CSRと同じようにグリーンウォッシュとして悪用されることも、自己満足や、深刻な問題に目を閉じるツールとして使われることもある。斎藤氏は、資本家による利潤の蓄積が目的、機動力となっている資本主義という現代社会の問題の根本にあるものにメスを刺さずに行われている政策や運動を批判している。彼はその文脈で、代表的な運動の例としてのSDGsを挙げて「大衆のアヘン」と表現している。ただ、SDGs自体は、1992年のリオの環境会議からの活動の中で構築されてきた、包括的な指針であり、これまでの人類史にはない、人類の共通の意思表示である。私は高く評価している。その指針に命を吹き込んで行くのが個人や企業や団体や自治体や国の使命だと。

私は今年の春に出版した『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』にて、社会が変わるためには、個々の人間の心が変わることが大切だ、という経験的な認識を、私が敬愛するヘルマン・ヘッセを随所に引用して伝えた。ヘルマン・ヘッセは、1960年代から 70年代にかけての世界的な社会変革運動の活動家たちに大きな影響を与えたドイツの作家で、同じく大きな影響を与えたマルクスとよく並べられ、対比される。2人は対照的な人物だ。ヘッセも意識していたようで、「…..マルクスと私の違い。マルクスは人類を変えたい。私は個々の人間を変えたい」という短い言葉を残している。

ヘッセは、「我がまま(自身の心の奥深くにある神聖なものに従うこと)」という心の羅針盤を持った人だった。彼の作品には、世界を変えるためには、個々人の心が大切であるという思想が、共通のメロディとして流れている。それに対してマルクスは、社会制度や政治という枠組みを変えることで、世界を変えようとした、と私は理解していた。少なくとも、これまでのマルクスを思想的な支柱にした運動は、そういうアプローチだった。でもうまくいかなかった。だから、なぜに今さらマルクスか、と不思議に思った。でも斎藤氏は、新しいマルクス像を私に与えてくれた。

最近の研究で明らかになってきた晩年のマルクスの思想を、斎藤氏は『人新世の資本論』で解釈し、紹介している。それは、コモン(共有され共同管理される富)の拡張による民主的な「脱成長コミュニズム」である。過去にうまく行かなかった国家権力による社会主義や共産主義ではなく、市民や労働者が主体となった民主的な政治体制や企業・団体のマネージメントによるものである。斎藤氏は、世界中にある協同組合的な企業や市民団体の活動を、脱成長コミュニズムの芽として紹介している。経済分野においては、資本家が利潤を増やすための道具、別の言い方をすると「人材」や「労働力」である労働者が、生き物である人間として、主体的に創造的に働くことができる体制である。これら各地で発生している個々の小さな実践や活動が、世界的に繋がり、社会制度やシステムを大きく変えていく力になる、と斎藤氏は説いている。私が『多様性』の最終章で、ヘッセや脳神経学のヒューター、小澤征爾やスティング、チャック・リーヴェルなどの音楽家を引用し、描いているヴィジョン「尊厳を取り戻した個々の人間による社会の跳躍」と通じるものを感じたので、とても共感した。これまで対照的なアプローチの思想家だと認識していたヘッセとマルクスが、斎藤氏の名著により、私の中で繋がった。

パタゴニアからラジオ出演依頼

先日、嬉しい問い合わせがありました。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3
を読んだ、パタゴニア・ジャパンの社会環境部の方から、パタゴニア提供のFM長崎の番組「NATURE & FUTURE 」に、長崎出身者として出演の依頼がありました。

8月4日、zoomにて収録でした。オンラインでのラジオインタビューは初めてだったので、ちょっと緊張しました。

1時間の番組。好きな曲を4つリクエストすることもできました。私の本の5章に登場する環境保護家のスティングの曲や、森林業家でキーボーディストのチャック・リーヴェルが一緒に活動したエリック・クラプトンの曲などをリクエストすることができました。

放送は、8月13日(金)20時からです。
https://www.fmnagasaki.co.jp/program/

radikoというアプリで、放送から1週間、全国どこでも聴けるようです。

radiko | インターネットでラジオが聴けるラジコは、スマホやパソコンでラジオが聴けるサービスです。今いるエリアのラジオ放送局なら無料で、ラジコプレミアムなら全国のラradiko.jp

パタゴニアは、アメリカ西海岸に本社がある老舗のアウトドアメーカーです。私はダウンジャケットなど愛用しています。企業としても、勇気ある政治表明をし、社会的行動をしている、私が尊敬する会社です。

環境保護活動のパイオニア企業でもあり、1990年代半ばに、コットン素材をオーガニックコットンへ切り替え、それからペットボトルからなるリサイクルポリエステルの使用、2000年初頭には、使い古された衣類の引き取りとリサイクルを開始しています。

2018年には「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という宣言をし、最近では、環境再生型有機農業にも積極的に取り組んでいます。また、パタゴニアは、2025年までにカーボンニュートラルの達成を目指しています。今年には約80%が達成される見込みだそうです。

参考記事:
https://www.sustainablebrands.jp/news/jp/detail/1196062_1501.html

科学に100%の答えはないが…

科学的な知見からは、こうあるべきだ、という強力で明白な理屈が導き出される事柄でも、なかなか変化や実践が進まないことがたくさんある。

優秀な科学者の多くはとても謙虚である。科学に100%の答えはないことを自覚している。そのような科学者は、世間で大きく目を引くような断定的なこと、2極論的なことは言わない。白黒はっきりした物言いや単純明快な比較を好む多くのメディアには、そのような誠実で謙虚な科学者はあまり呼ばれない。だから世間に声が届きにくい。

しかし100%の答えでなくても、これまで集積された数々の研究から、80%、90%、もしくは99%の確率で正しいと言うことができる科学的見解もある。しかし、そのような確実性の高い科学のメッセージも、「ケースバイケース」「いろんな見方がある」という魔法の言葉で、軽視、無視、もしくは据置きされてしまうことがよくある。世界中で。

私のライフワークである森林においてもそうである。木材を利用するための世界の森林マネージメントの主流は、現在でも「木の畑」のフィロゾフィーの実践。土壌劣化や流出、各種災害や病気のリスクが高く、中長期的には、多くの条件で非経済的であることが、科学的に高い確率で立証されているにもかかわらず。既存の木の畑を、丁寧な間伐をしながら、自然の力を利用して、単調な「林」から多様な「森」に変えていく手法も確立していて、実証されているにもかかわらず。

日本の2人の森林研究者を紹介したい。

1人は、私の尊敬する大先輩である、藤森隆郎氏。世界的に高く評価されている森林生態学者だ。光栄なことに、拙著『多様性』に個人的な長文の書評を頂いたが、そのなかの下記の一節は、謙虚な藤森氏が、半世紀に渡る研究の成果から、おそらく99%確証を持って、述べられている。

日本の自然が豊かであることは、植物の再生力の高さを意味します。それは目的樹種よりも早生の雑草木の繁茂の激しさを意味します。日本の下刈り、つる切りまでの初期保育の経費は、他の温帯諸国のそれの10倍かかっているという報告があります。このことだけからも、短伐期の繰り返しは避けるべきことを強調しなければなりません。その上に短伐期の繰り返しは、生物多様性をはじめとする多面的機能の発揮に反し、持続可能な森林管理に反することをしっかりと説明していく必要があります。そして短伐期から長伐期多間伐施業へ、長伐期多間伐施業を進めながら択伐林化、混交林化へと進めていくことの必要性、すなわち「構造の豊かな森林」を目指して行くというストーリーを語ることが必要だと思います。
https://note.com/noriaki_ikeda/n/n0821d5634526

もう1人の研究者は、緑のダムの研究を30年以上続けられている蔵治光一郎教授。下記のリンクからダウンロードできる論文『森林の緑のダム機能(水源滋養機能)とその強化に向けて』には、日本も含めた世界中の数々の研究データが紹介され、分析、検証されている。
http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/~kuraji/Midorinodam.pdf

「科学のメッセージを真摯に受け止めて欲しい」

と切に訴えても、届きにくい社会環境があり、変化や実践にブレーキをかける構造がある。

私は、どうしたら届くのか、どうしたら変わるのか、自分なりに思索し『多様性』を書いた。日本の大学でドイツ文学を学んで、ドイツの大学で森林学を学んだものとして、理系と文系、科学と文学を結びつけることを試みた。最新の植物神経学や脳神経学の知見、著名な文芸家や芸術家の言葉から、変化することのモチベーションの源泉を探った。人間は、感性と理性の生き物であるから。
https://youtu.be/ZmwJY3dijxk