権威ある林業経済学会誌で書評

昨年春に出版した拙著『多様性-人と森のサスティナブルな関係』は、業界関係者や専門家だけでなく、広く一般の人々に読んでもらえるように配慮して、エッセイ風に書いた本ですが、大変嬉しいことに、権威ある「林業経済学会」学会誌の書評で取り上げてもらえました。
https://www.jstage.jst.go.jp/…/8/74_26/_article/-char/ja/
書評の最初のページだけ、サンプルとして掲載されています。全文のダウンロードは、学会会員でないとできないようです。
書評を書かれたのは、ドイツとスウェーデンに留学経験をお持ちの東京大学大学院農学生命科学研究科の研究者:長坂健司さんです。
理系と文系の結びつき、科学と文学・哲学・音楽の結びつき、林業現場、行政、研究界、経済界、一般社会の結びつきを願って書いた本です。また、比較による分析、分類ではなく、統合と融合のアプローチを促進する意図もあります。そういう動きが生まれることを望んでいますし、日本の繊細な宝物「森」を守り、育て、活かすために、研究者の方々による支援も期待します。

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慶應大学の全労済協会寄付講座でオンラインレクチャー

先週、慶應大学の経済学部の約250名の学生向けに、オンラインで森林業の話をしました。全労済協会の寄付講座でした。

参加者の数では、私のオンラインセミナーの最高記録です。

拙著『多様性−人と森のサスティナブルな関係』を読まれた駒村康平教授から、昨年夏に依頼を受け、最終講義の回に当ててもらいました。

ドイツ時間、夜中の2時45分からの開始で、ホームオフィスの灯りをつけて、机に座って画面に向かって話す、という最近ときどきあるシチュエーションです。しーんと静まり返った真夜中にレクチャーするのは、ちょっとハイな気分になり、奇妙な感覚です。

多方面へ「気くばり」をする、生活、文化、経済と様々な相乗効果をもたらす森林業から、経済学部の学生だったので、デモクラシーの基盤である「尊厳」と「資本主義経済」の関係性、ニューロサイエンス(脳神経学)の知見からの人間社会のあり方まで話しました。

学生からは、森林業への質問が、時間内では答えきれないくらいたくさんありました。

駒村教授は、ニューロサイエンスのテーマで、もっと深く議論したいと仰っていただきました。

終わったのは朝4時。高山の友人で森林業のパートナー長瀬雅彦さんから数年前にいただいていた特別なウイスキー「Shivas Regal MIZUNARA Edition」を2フィンガーくらい飲んで、気持ちを鎮めてから床につきました。

昨年本を出してから、光栄なことに、様々な団体からオンラインレクチャーの問い合わせをいただいています。木材、建築、街づくり、再生可能エネルギー、レクリエーション、アウトドア、ドイツ文学、農学、経済学…と多様な分野の企業や団体や教育機関からです。森林業の「周縁分野」、専門外の方々が、日本の宝物である「森林」に高い関心を抱かれています。

残念ながら、コアである「森林」の関係団体や教育機関からは、これまでオンラインレクチャーの依頼がありません。生の交流、現場での研修を重視する風土がありますので、オンラインには積極的ではないのかもしれませんが、日本やドイツにて、みなさんと生の交流ができるまでは、あとしばらくかかりそうです。特に、これからの社会を担う若い学生や、第一線の現場で働かれている方々と交流したいと思っています。お気軽にお問合せください。

孤高の木、家族や民族として生きる木々

自然を愛したヘルマン・ヘッセは、「木」という奥の深い詩を書いている。その詩は、次のフレーズで始まる。

「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている」

詩の全文はこちらから:
https://note.com/noriaki_ikeda/n/ndc0e30cbb3da

私が住むシュヴァルツヴァルトの草原や牧草地には、ヘッセがより尊敬する、ベートヴェンやニーチェのような孤独に強く生きる孤高の木がある。存在感があり、思わず写真を撮りたくなる。

でも、多くの樹木は、大きな森や小さな森として、民族や家族のように寄り添って生きている。人間と同じように、助け合いも競争もする仲間を必要としている。仲間から離れて1人孤独に生きる樹木も、実は1人ではない。土壌の中の無数の微生物や昆虫や鳥とつながって、支えられながら生きている。ベートヴェンやニーチェのような孤独で崇高な人間も、無数の腸内細菌や周りの動植物とのつながりと支えによって生きているのと同じように。

人間に例えたら幼い子供くらいなのに、孤立して植えられた、もしくは仲間から大きく間隔を開けて植えられた街路樹や公園の若木を見ると、悲しくなる。幼く自立できないから、木製や鉄製の保護柵で倒れないように保護されている。まだ柔らかく病害虫が入りやすい樹皮を白くペインティングしてあるものもある。とても惨めでかわいそうだ。彼らが植えられる場所は建設土木作業で圧縮された土壌が多いので、固いし、空気も少ないし、保水力も少ない。だから、日当たりはいいのに、成長が遅い場合がよくあるし、枯れないように頻繁に水やりが必要になる。

家族や民族として育つ樹木たちは、お互いに支え合って生きているので保護柵もペインティングも必要ない。みんなで根を張って土壌を耕し空気を入れ、土壌の小動物や微生物を増やし、保水力も高めるので、頻繁な水やりも必要ない。

私もベートーヴェンやニーチェのような偉大な孤高の人物を尊敬する。でも、ヴェートーベンのシンフォニーを演奏し合唱するオーケストラやコーラスに、より感動し、希望を感じる。そして、私たち人類が今、より必要としているのは、ニーチェのような1人の崇高な哲学者ではなく、個々の特性や能力で、共に未来を創造する、たくさんの多様な人々だと思う。

2021年春に出版した『多様性〜人と森のサステイナブルな関係』にも、シンフォニーを演奏し合唱する人たち、みんなで未来を創造する人たちを描いています。
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ベーシックが大切

フォレストジャーナルに頼まれて、ドイツの森林業で、川上と川下を繋ぐキーマンであるフォレスターの記事を書きました。
https://forest-journal.jp/market/31805/

1)質の高い森林調査と整理されたデータ、
2)持続的な素材生産計画、そして、
3)現場や所有者の状況を隅々まで把握する異動が基本ないフォレスターの「頭脳コンピューター」の大切さを、
とりわけ強調しました。
日本では、四半世紀前から「高性能林業機械」、ここ数年は「スマート林業」「異業種参入」などアピールされていますが、それらの魅力的に聞こえる「ツール」も、上記の3つのベースに加え、4)質の高い道のインフラと、5)人を育てる教育システム、という基盤があって初めて、その性能が発揮されます。
私は、何事もベーシックが大切だと思います。ベーシックは目立たないし、見新しくないし、単年度という組織の都合や、政策決定者の短い任期内では、目に見える成果は上げられないことが大半なので、抜本的な議論や長期的なビジョンの構築と実践は、やりにくい構造ですが、やるべきことだと思います。
それから、記事の最後に書いていますが、その職業を学ぶ人間、それに従事する人間にモチベーション与える「ロマン」も大切だと。

https://forest-journal.jp/market/31805/

宮脇メソッドの「密植」と天然更新の「密生」の背後にある原理と、人の手の必要性の考察

世界で急速に広がっている、荒地やちょっとした空き地に「ミニ森林」を造成する宮脇メソッドに私が好感を持っているのは、近自然的森林業における天然更新と類似点があるからだ。それは、どちらも「密」で「多様」だということ。前者は、土を施して多様な樹種の「密植」をする。後者は、不均質な間伐で多様な光環境を土壌に与え、多様な樹種の更新を促す。狩猟でシカの食害を抑え、控えめな間伐で光の量を調整して草の繁殖を抑えることができれば、自然は溢れるほどの稚樹を「密生」させる。

密植、密生で育った樹木たちの間では、個々の樹種の光に対する性質や、土壌タイプとの相性、個々の樹木の成長生理学的特性などから、ダーヴィンの「競争」による「自然淘汰」が起こる。側から見たら、過酷な生き残り競争だが、果たしてそれだけだろうか? 密生していることで、草の成長が抑えられる。密生の中では湿度や温度が高くなり、風や日照りや雪から守られ、土壌の侵食が抑えられ、土中の生物活動が活性化し、樹木の成長が促進される。樹木の大切なパートナーである菌根菌もたくさん、いろんな種類の菌が棲みつく。樹木は、土中で菌根菌を媒介にして、空気中では、自ら生成するフェロモンを放出して、仲間や他の生物種とコミュニケーションを取っていることも、「植物神経学」という新しい学問分野で解明されてきている。「競争」の側面より、「協力」の側面が大きい。

競争にあたる英語「competition」の語源はラテン語の「com-petere(一緒に探す)」。ドイツ語「Konkurrenz」の語源もラテン語で「con-curre(一緒に歩む)」。どちらも「競争」でなく「協力」の意味合いを持つ。古代の人たちはおそらく、自然の原理、自然界の一員としての人間のあるべき生き方を、直感的に、ホリスティックに理解していたのではないだろうか。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、「競争」を主要な原動力にする社会システムが現代の様々な問題を引き起こしていること、それらの解決のためには、自然に習って「協力」の思考と行動を増やしていくことが必要だと論じた。最新の脳神経学の知見から、人間の強みは「競争」ではなく「協力」であって、進化の主要な原動力であることも。
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宮脇方式は、自然の森と類似の樹種の多様性を人工的に施して、時間と共に自然淘汰の力を活用して、人手もあまりかけずに多様な森にしていくというストーリーだが、果たしてどこでもそうなるのかどうか、私は疑問を持っている。

宮脇植樹方式と近自然森林業での天然更新に共通するのは「密」と「種の多様性」だが、両者を比較すると、地ごしらえをして土壌を均質化し、開けた場所に同じ時期に一斉に植える宮脇方式では、自然の森にある土壌の多様性、上層木による光の多様性、更新の時間差はない、もしくは少なく、自然淘汰の機能が十分に発揮できない、機能しない限界もあると思われる。私は、現在世界に広がる宮脇ミニ森林を健全な森にしていくためには、場合によって、適切な除伐や間伐が必要になると見ている。特に高温多湿の西日本では、聞くところによると、自然淘汰が起こりにくく、もやし状のひ弱い林になっているとの観察がたくさんあるようだ。

個々の植樹地は継続して観察を行い、森を健全に多様にしていくために必要な場合は、除伐や間伐で手を入れていく必要がある。宮脇先生が理想形としている鎮守の森も、多くの場合、人の手が頻繁に入ってつくられている。

宮脇方式植樹のミニ森林の2つの写真(2014年と2021年)は、東京の二子多摩川公園で撮られたもので、関橋知巳さんからいただきました。

原生に近い森を守り、増やそう!

ドイツ国土面積は日本とほぼ同じ。「森の国」と呼ばれるが、森林率は約30%で日本の半分以下。北部は平地が多いが、中部から南部にかけて、丘陵地や山岳地がある。急峻な日本に比べて、人間が開拓しやすい場所が多いため、ほぼ全ての森は、過去に大なり小なり人の手が入っている。原生の森はない。

自然は硬直したものではない。気候や地形や地質、様々な生物種の相互作用によって、絶えず変化している。人間も自然界の一部であり、自然と「共生」している。進化の過程で脳を著しく発展させた人間はしかし、生活基盤である自然環境を、自分のイメージや思いに基づいて、大きく変える力を持った。

人間が大きく変更を加えたものの、自然の多様性とバランスが維持創出されている共生関係がある。例えば日本の里山や鎮守の森、私が住むシュヴァルツヴァルトの近自然的森林業と多面的利用がされている牧草地のランドスケープなど。一方、自然の多様性もバランスも著しく低下させ、土壌や水質の劣化や、土砂崩れや洪水、旱魃といった災害を誘発させる「共生」とは言えない搾取的利用もある。とりわけここ100年ほどの間で、技術の進歩と人口の爆発的増加も相まって、それら非持続可能な自然利用が急速に拡大している。

ドイツの森林マネージメントの政策は、1970年代半ばから、「林業」から「森林業」へ、「木の畑」から「近自然的な森づくり」へ、大きくシフトした。ただし、人間の政策が変わったからといって、森がすぐに姿を変えるわけではない。森は長い時間軸で動いている。50年経った今でも、昔の木の畑はまだたくさん残っている。昔身につけたその哲学で、「林業」を継続している人たちもいる。

自然は人間が生きる空間であり、人間は、同時にそこから資材や食料や水を得なければならない。自然への干渉は避けられない。その干渉の仕方は、搾取的なものから調和的なもの、集約的なものから粗放的なものまで多様にある。できる限り調和的で粗放的なやり方が持続可能である。ドイツの森林では、ここ50年の間、調和的で粗放的なやり方が増え、均質から多様の方向へゆっくりと進んでいる。それはいい傾向であるが、問題は、ほぼすべての森林で、大なり小なり木材生産が行われていること。人間による自然への働きかけによって、それが調和的で粗放的であっても、生息場所を奪われてしまう生物種がいる。とりわけ、食物連鎖の頂点にいるオオカミや熊、オオヤマネコは、中欧では、人間による自然干渉と、一部はアクティブな駆除行為によって、過去に絶滅に追いやられた。そのような生物種は、人間の影響が少ない、人間がほとんど手をつけない、広いエリアが必要になる。

ほぼ全てが木材生産林であるドイツの森林には、自然・景観保護区域も含まれていて、それら指定の区域では、各カテゴリーに応じて利用の制限がある。そのなかで、人間の木材利用を一切、禁止する、干渉は限られたレクレーション利用にとどめる、という自然保護の最高カテゴリーがある。州によって呼び名や細かな規制が違うが、私が住むBW州では「Bannwald(禁制森)」という。

シュヴァルツヴァルト最高峰のフェルドベルク山(標高1493m)の山頂エリアの小さな氷河湖の周りのお椀状の急峻な森林の約100haが、その「Bannwald(禁制森)」に指定されている。道は狭い岩だらけの登山道だけで、観光レジャー客はそこを歩るいて森と湖を体験する。今年は近場で日帰りバカンスをすることに決めた私の家族は、日曜日にそこを訪れた。私は学生のとき以来、ほぼ20年ぶり。

針葉樹のトウヒが5割くらい、残りはブナとカエデなどの広葉樹の混交森。過去数百年の間で人の手が入れられてきた森林であるが、過去50年あまり、ほとんど手がつけられてなく、原木利用を一切しない「禁制森」に指定されたのは1993年。風害で倒れた、夏の水不足などによる虫の害で立ち枯れになったトウヒがそのまま残されている。10年以上の時間も経ち、苔がたくさん生えている倒木もある。観光レジャーの利用制限もしっかりある。2000年から、湖畔での遊びや遊泳は禁止されている。私が学生の頃は泳ぐことができた。

人間が手をつけないことで、自然の多様化への遷移を促すこと、希少な動植物を保護するという目的の他に、中長期的に手付かずの自然を観察して、そこから近自然的森林業やランドスケープマネージメントの知見を得ていくという目的もある。私も20年前に大学でいろいろ学んだ。倒木があることで、昆虫や微生物の数が数段増え、土壌の生成にもポジティブに働き、土壌表面に湿気が保たれ、潜在植生の天然更新や、近辺の樹木の樹木の成長が促進されたりすること。また、虫は弱った樹木や枯れ木に集中し、健康な樹木には広がらないこと、などなど。林学・森林学は、現場から生まれ、現場との対話で発展している実学。たくさんのデータや理論が蓄積されている現在でも、わかっていないことはたくさんある。いつも謙虚に根気強く自然を観察することが大切だ。

ただ、100haといった比較的小さな保護面積は、一度絶滅した、また絶滅の危機に瀕している多く野生動物にとっては、生息領域として全く足りない。国立公園などでは、何も手をつけない禁制森などを核にして、その周りに利用を大部分抑えたバッファゾーン(緩衝帯)を設けるマネージメントも行われている。過去数十年のそういう措置の甲斐もあってか、シュヴァルツヴァルトでも、一度居なくなったオオカミやオオヤマネコが最近、観察されている。熊はアルプスの山地や東ドイツのポーランドとの国境付近などで少しづつ数が増えているようだ。

「禁制森」のような人間の利用を禁じ、自然に委ねる森は、ドイツではまだ、ほんの1%足らずだ。9月の連邦総選挙で政権獲得を狙う緑の党は、「原生森基金」を設立し、その資金で自然に委ねる森の面積を近い将来5%に、最終的には10%にしていくことを提案している。

日本はドイツとほぼ同じ国土面積で、ドイツの2.5倍の森林面積を有し、うち人工林が40%、残りは天然林で、天然林も町や村に近い場所は、旧里山や戦後の皆伐後の放置林(二次林)が多いですが、奥山や渓谷や標高の高い場所には、あまり人の手が入っていない森林が比較的たくさんあります。私は個人的に、そこは手を付けないで、道もつくらないで、人間の影響の少ない自然の生態系の発展の場所として残すべきだと思っています。

私の新刊『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』
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では、「気くばり森林業」を日本に提案していますが、ターゲットにしているのは、本では明確に述べていないですが、居住地の近くに集中する人工林や元里山の放置林です(日本の森林の6割くらいの面積です)。そこにでは、人と自然の共生のバランスが取れた森林利用を推奨します。この6割くらいの森林でも、充分に多様な木材を持続的に供給し、将来的に国内自給できるポテンシャルがあります。日本のそういう場所での持続的な木材の利用、安全な森林保養のためには、質の高い基幹道が「必要最低限の密度」で整備されていくことを薦めます。残念ながら、過去に日本で作設された道の多くは崩壊し、または災害の起点になってています。自然保護や災害の観点で批判の的になるのは当然です。そうでない水のマネージメントをしっかりした、最大限の自然配慮をした必要最低限の道づくりの事例を本では紹介しています。

私の本を読んだある誠実な読者から「動物の観点は?」という批判がありました。人の影響の少ない、人の手があまり入らない大きな面積の生息空間が必要な動物がいます。彼らとの共存のためには、ゾーニング(棲み分け)が必要で、極力手をつけない、観光レジャーでも、明確な規制と誘導措置が推奨されます。中央ヨーロッパよりはるかに地質も地形も生物種も多様な日本の森林。分別ある気くばりのマネージメントが、貴重な財産を将来に渡って維持するために、自然と共生進化していくために必要だと思います。

パタゴニアからラジオ出演依頼

先日、嬉しい問い合わせがありました。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3
を読んだ、パタゴニア・ジャパンの社会環境部の方から、パタゴニア提供のFM長崎の番組「NATURE & FUTURE 」に、長崎出身者として出演の依頼がありました。

8月4日、zoomにて収録でした。オンラインでのラジオインタビューは初めてだったので、ちょっと緊張しました。

1時間の番組。好きな曲を4つリクエストすることもできました。私の本の5章に登場する環境保護家のスティングの曲や、森林業家でキーボーディストのチャック・リーヴェルが一緒に活動したエリック・クラプトンの曲などをリクエストすることができました。

放送は、8月13日(金)20時からです。
https://www.fmnagasaki.co.jp/program/

radikoというアプリで、放送から1週間、全国どこでも聴けるようです。

radiko | インターネットでラジオが聴けるラジコは、スマホやパソコンでラジオが聴けるサービスです。今いるエリアのラジオ放送局なら無料で、ラジコプレミアムなら全国のラradiko.jp

パタゴニアは、アメリカ西海岸に本社がある老舗のアウトドアメーカーです。私はダウンジャケットなど愛用しています。企業としても、勇気ある政治表明をし、社会的行動をしている、私が尊敬する会社です。

環境保護活動のパイオニア企業でもあり、1990年代半ばに、コットン素材をオーガニックコットンへ切り替え、それからペットボトルからなるリサイクルポリエステルの使用、2000年初頭には、使い古された衣類の引き取りとリサイクルを開始しています。

2018年には「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という宣言をし、最近では、環境再生型有機農業にも積極的に取り組んでいます。また、パタゴニアは、2025年までにカーボンニュートラルの達成を目指しています。今年には約80%が達成される見込みだそうです。

参考記事:
https://www.sustainablebrands.jp/news/jp/detail/1196062_1501.html

書評 「多様性」 by 岩田京子さん

埼玉県吉川市で長年、環境に関する市民活動をされ、市議会議員も勤められている岩田京子さんからの書評です。私が知らなかったゲーテの言葉が印象的です。

日本の森林が色々危惧されている中で、まだまだ可能性があると確信でき、ワクワクとドキドキが止まりませんでした。森の多様性は素晴らしい。「森を」「森で」楽しみたい人が増えることが大切なんだと思いました。著者の池田さんは専門家ですが、文章はとても読みやすく、森への愛情がたっぷりで前向きな気持ちになりました。

日本人も自然と共に生きてきた国民だと思っていたけれど、ドイツの「森林業」、森のつくり方・木の活用の多様性、それが全てハーモニーのように絡み合ってくまなく活用する様は「素晴らしい」に尽きます。

後半にはヘッセまで登場して、「我がまま」な生き方を教えてくれました。私たちの中に天国の教えがあるから、その心の声に忠実であれと。ヴォルテールの「私たちは自然は常に教育よりも一層大きな力を持っていた」やゲーテの「なぜ私は好んで自然と交わるかというと、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私のほうにあるからだ」などという言葉も思い出しました。昔から、自然は偉大で、全てを教えてくれているんです。

森林の話だけど、人間の生き方の話で、現代人の心にノックしてくれる本だと思います。

岩田京子 筆

科学に100%の答えはないが…

科学的な知見からは、こうあるべきだ、という強力で明白な理屈が導き出される事柄でも、なかなか変化や実践が進まないことがたくさんある。

優秀な科学者の多くはとても謙虚である。科学に100%の答えはないことを自覚している。そのような科学者は、世間で大きく目を引くような断定的なこと、2極論的なことは言わない。白黒はっきりした物言いや単純明快な比較を好む多くのメディアには、そのような誠実で謙虚な科学者はあまり呼ばれない。だから世間に声が届きにくい。

しかし100%の答えでなくても、これまで集積された数々の研究から、80%、90%、もしくは99%の確率で正しいと言うことができる科学的見解もある。しかし、そのような確実性の高い科学のメッセージも、「ケースバイケース」「いろんな見方がある」という魔法の言葉で、軽視、無視、もしくは据置きされてしまうことがよくある。世界中で。

私のライフワークである森林においてもそうである。木材を利用するための世界の森林マネージメントの主流は、現在でも「木の畑」のフィロゾフィーの実践。土壌劣化や流出、各種災害や病気のリスクが高く、中長期的には、多くの条件で非経済的であることが、科学的に高い確率で立証されているにもかかわらず。既存の木の畑を、丁寧な間伐をしながら、自然の力を利用して、単調な「林」から多様な「森」に変えていく手法も確立していて、実証されているにもかかわらず。

日本の2人の森林研究者を紹介したい。

1人は、私の尊敬する大先輩である、藤森隆郎氏。世界的に高く評価されている森林生態学者だ。光栄なことに、拙著『多様性』に個人的な長文の書評を頂いたが、そのなかの下記の一節は、謙虚な藤森氏が、半世紀に渡る研究の成果から、おそらく99%確証を持って、述べられている。

日本の自然が豊かであることは、植物の再生力の高さを意味します。それは目的樹種よりも早生の雑草木の繁茂の激しさを意味します。日本の下刈り、つる切りまでの初期保育の経費は、他の温帯諸国のそれの10倍かかっているという報告があります。このことだけからも、短伐期の繰り返しは避けるべきことを強調しなければなりません。その上に短伐期の繰り返しは、生物多様性をはじめとする多面的機能の発揮に反し、持続可能な森林管理に反することをしっかりと説明していく必要があります。そして短伐期から長伐期多間伐施業へ、長伐期多間伐施業を進めながら択伐林化、混交林化へと進めていくことの必要性、すなわち「構造の豊かな森林」を目指して行くというストーリーを語ることが必要だと思います。
https://note.com/noriaki_ikeda/n/n0821d5634526

もう1人の研究者は、緑のダムの研究を30年以上続けられている蔵治光一郎教授。下記のリンクからダウンロードできる論文『森林の緑のダム機能(水源滋養機能)とその強化に向けて』には、日本も含めた世界中の数々の研究データが紹介され、分析、検証されている。
http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/~kuraji/Midorinodam.pdf

「科学のメッセージを真摯に受け止めて欲しい」

と切に訴えても、届きにくい社会環境があり、変化や実践にブレーキをかける構造がある。

私は、どうしたら届くのか、どうしたら変わるのか、自分なりに思索し『多様性』を書いた。日本の大学でドイツ文学を学んで、ドイツの大学で森林学を学んだものとして、理系と文系、科学と文学を結びつけることを試みた。最新の植物神経学や脳神経学の知見、著名な文芸家や芸術家の言葉から、変化することのモチベーションの源泉を探った。人間は、感性と理性の生き物であるから。
https://youtu.be/ZmwJY3dijxk

自由の最大公約数

「個々人の自由というのは、他の人の自由が始まるところで終わる」

ドイツの哲学者カントが200年以上前に言った言葉です。

自由はデモクラシーの支柱の1つで、幸福感の重要な要素ですが、勝手気ままな無制限の自由の行使は、他人の自由を奪ってしまいます。個々のたくさんの自由を成立させるためには、各人による360度の「気くばり」が必要です。

また、現在、世界で大きなテーマになっている健康や福祉、社会的公平は、自由を行使するための前提条件です。今回のパンデミックや災害は、人間に対しても自然環境に対しても「気くばり」が不可欠なこと、そうでないと、多くの自由が奪われてしまうことを、私たちに教えてくれています。

民主的な社会では、話し合いや議論、法律や制度によって「自由の最大公約数」を求めていく努力を絶えず続けていかなければなりません。複合的に共生進化する森の多様な生き物たちのように。

新刊『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、人と森と木を軸に、私が大学や生活や仕事で身をもって学んだ自由と気くばりのバランス、「自由の最大公約数」を求めるための心のスタンスを描いています。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3