脱イデオロギーの、尊厳を基盤にした市場経済

市場のプレイヤーが「競争」というモーターで、利益を最大化することによって、社会が国が豊かになる、という寓話を信じる(信じたい)「資本主義」が、環境破壊や社会格差を起こしていることは明らかで、その構造は、マルクスの研究者である斎藤幸平氏の『人新世の資本論』にも明確に描写されている。

ただ、マルクスは「資本論」にて、市場経済の主要な生産ファクターとしての「資本」について論じているが、資本「主義」とは言っていない。18世紀半ばの産業革命を契機に拡張し、現在、世界で支配的になっている経済システムは、ニュートラルに表現すれば、「資本主義」ではなく、「資本制」もしくは「資本による市場経済」だろう。でもいつの頃からか、政治思想(イデオロギー)的な表現「資本主義」になってしまった。その経緯や背景については、いくつか文献があるようなので、今後調べてみたい。

私は「資本による市場経済」というシステム自体ではなく、イデオロギーになった「資本主義」の目標設定を問題視したい。資本家の利益の最大化が、最高の目標とされ、それが結果的に社会全体を豊かにする、という寓話によって正当化されていることを。収支決算の結果(利潤の大きさ)をメインに企業を評価する仕組み、GDPを国の豊かの主要な指標とする仕組みも、「資本主義」という寓話に基づいている。

しかし他方で、現代の資本主義経済の中にも、以前から、環境調和的で、社会的に公正で、持続可能な経済活動はある。

世界中にある協同組合、もしくはそれに準じる企業や団体の活動がその一例である。ドイツの協同組合のパイオニアの1人とされるライフアイゼンの誕生200周年であった2018年、ドイツのライフアイゼン協同組合連合会は、年次報告書で「資本家のいない資本主義」、と協同組合のコンセプトの核心を挑発的に謳っている。協同組合では、大勢の出資者によって民主的な運営がされ、利潤の投資も分配も、定款に基づいて、公益性と平等が重視される。利潤を上げることが「目標」ではなく、利潤は、組合員や社会を幸せに、安全に、豊かにするための「手段」である。

また、協同組合でなくても、あえて上場しない株式会社や、利潤を公益的な事業に投資し、公平に従業員に分配し、成長よりも地域との繋がりを重視する家族企業や中小企業もある。利益の最大化が第一目標ではない、地域を豊かにする企業もある。

今必要とされているのは、寓話でしかありえない、現実に機能しない、社会に持続的な豊かさをもたらさない政治思想としての「資本主義」を、イデオロギーの呪縛から解放すること、現実に機能する新しい目標を与えることだと私は思う。別に全く新しいことではない。革命でもない(革命は反発や反動を呼び、非生産的な結果を導くことが多い)。以前から機能している協同組合や、家族や地域や自然環境や従業員を思いやる企業経営は、世界中に存在しているし、困難や問題意識の中から、新しいものも生まれている。斉藤氏は「人新世の資本論」の最後の方で、それら現代のコモンの事例を紹介している。

企業を、利益の大きさだけでなく、社会性や環境負荷なども含めて、包括的に評価する仕組みも、「豊かさ」を、GDPという狭い観点ではなく、広い観点で計算、評価する手法も、世界に、すでにいくつも存在し、活用されている。それらを、積極的に、経済の仕組みの中に組み込んでいくことが求められている。

斉藤氏の研究と著書は、これまで誤解されていたマルクスを、国家社会主義や国家共産主義というイデオロギーの呪縛から解放することに貢献していると思う。彼は、脱成長、脱資本主義を主張しているが、私は資本による市場経済の脱イデオロギーを提唱したい。そのためには、これまで「対象」で「受動者」であった市民や労働者が、「主体的」で「能動的」な参画者とならなければならない。そうなるための共通の精神的な基盤として、私は「尊厳」を挙げたい。拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』 https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3 の最後で論じたことだ。「尊厳」も新しいものではない。脳神経学の観点からは、人間が生まれ持っているものであるし、国連憲章でも、多くの国の憲法でも、「最も大切な価値」として位置付けられている。

尊厳を基盤にした市場経済。非現実的な夢物語ではないと思う。

「人新世の資本論」を読んで、ヘッセとマルクスが繋がった

昨年から話題になっている斎藤幸平氏の「人新世の資本論」。序文にて「SDGsは大衆のアヘンである」と、市民の身近な環境行動を非生産的なものとして批判している、ということを、知人のブログで半年くらい前に読んだ。個々人の身近な行動が、意識の広がりを生み、最終的に社会を動かす力にもなっていくポテンシャルもある、という考えを私は持っているので、反発があった。また、多くの読者がこの本を手に取る前に思ったであろう「なぜ今さらマルクス?」という疑問もあった。だからしばらくの間、取り立てて読もうとも思わなかった。でも多くの読者を魅了し、力を与えている本のようなので、その真相を、他の人の書評でなく、自分自身で確かめたいという思いもあり、最近購入して読んでみた。

SDGsには、義務規制も、統一的な査定や認証の仕組みもないので、CSRと同じようにグリーンウォッシュとして悪用されることも、自己満足や、深刻な問題に目を閉じるツールとして使われることもある。斎藤氏は、資本家による利潤の蓄積が目的、機動力となっている資本主義という現代社会の問題の根本にあるものにメスを刺さずに行われている政策や運動を批判している。彼はその文脈で、代表的な運動の例としてのSDGsを挙げて「大衆のアヘン」と表現している。ただ、SDGs自体は、1992年のリオの環境会議からの活動の中で構築されてきた、包括的な指針であり、これまでの人類史にはない、人類の共通の意思表示である。私は高く評価している。その指針に命を吹き込んで行くのが個人や企業や団体や自治体や国の使命だと。

私は今年の春に出版した『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』にて、社会が変わるためには、個々の人間の心が変わることが大切だ、という経験的な認識を、私が敬愛するヘルマン・ヘッセを随所に引用して伝えた。ヘルマン・ヘッセは、1960年代から 70年代にかけての世界的な社会変革運動の活動家たちに大きな影響を与えたドイツの作家で、同じく大きな影響を与えたマルクスとよく並べられ、対比される。2人は対照的な人物だ。ヘッセも意識していたようで、「…..マルクスと私の違い。マルクスは人類を変えたい。私は個々の人間を変えたい」という短い言葉を残している。

ヘッセは、「我がまま(自身の心の奥深くにある神聖なものに従うこと)」という心の羅針盤を持った人だった。彼の作品には、世界を変えるためには、個々人の心が大切であるという思想が、共通のメロディとして流れている。それに対してマルクスは、社会制度や政治という枠組みを変えることで、世界を変えようとした、と私は理解していた。少なくとも、これまでのマルクスを思想的な支柱にした運動は、そういうアプローチだった。でもうまくいかなかった。だから、なぜに今さらマルクスか、と不思議に思った。でも斎藤氏は、新しいマルクス像を私に与えてくれた。

最近の研究で明らかになってきた晩年のマルクスの思想を、斎藤氏は『人新世の資本論』で解釈し、紹介している。それは、コモン(共有され共同管理される富)の拡張による民主的な「脱成長コミュニズム」である。過去にうまく行かなかった国家権力による社会主義や共産主義ではなく、市民や労働者が主体となった民主的な政治体制や企業・団体のマネージメントによるものである。斎藤氏は、世界中にある協同組合的な企業や市民団体の活動を、脱成長コミュニズムの芽として紹介している。経済分野においては、資本家が利潤を増やすための道具、別の言い方をすると「人材」や「労働力」である労働者が、生き物である人間として、主体的に創造的に働くことができる体制である。これら各地で発生している個々の小さな実践や活動が、世界的に繋がり、社会制度やシステムを大きく変えていく力になる、と斎藤氏は説いている。私が『多様性』の最終章で、ヘッセや脳神経学のヒューター、小澤征爾やスティング、チャック・リーヴェルなどの音楽家を引用し、描いているヴィジョン「尊厳を取り戻した個々の人間による社会の跳躍」と通じるものを感じたので、とても共感した。これまで対照的なアプローチの思想家だと認識していたヘッセとマルクスが、斎藤氏の名著により、私の中で繋がった。

宮脇メソッドの「密植」と天然更新の「密生」の背後にある原理と、人の手の必要性の考察

世界で急速に広がっている、荒地やちょっとした空き地に「ミニ森林」を造成する宮脇メソッドに私が好感を持っているのは、近自然的森林業における天然更新と類似点があるからだ。それは、どちらも「密」で「多様」だということ。前者は、土を施して多様な樹種の「密植」をする。後者は、不均質な間伐で多様な光環境を土壌に与え、多様な樹種の更新を促す。狩猟でシカの食害を抑え、控えめな間伐で光の量を調整して草の繁殖を抑えることができれば、自然は溢れるほどの稚樹を「密生」させる。

密植、密生で育った樹木たちの間では、個々の樹種の光に対する性質や、土壌タイプとの相性、個々の樹木の成長生理学的特性などから、ダーヴィンの「競争」による「自然淘汰」が起こる。側から見たら、過酷な生き残り競争だが、果たしてそれだけだろうか? 密生していることで、草の成長が抑えられる。密生の中では湿度や温度が高くなり、風や日照りや雪から守られ、土壌の侵食が抑えられ、土中の生物活動が活性化し、樹木の成長が促進される。樹木の大切なパートナーである菌根菌もたくさん、いろんな種類の菌が棲みつく。樹木は、土中で菌根菌を媒介にして、空気中では、自ら生成するフェロモンを放出して、仲間や他の生物種とコミュニケーションを取っていることも、「植物神経学」という新しい学問分野で解明されてきている。「競争」の側面より、「協力」の側面が大きい。

競争にあたる英語「competition」の語源はラテン語の「com-petere(一緒に探す)」。ドイツ語「Konkurrenz」の語源もラテン語で「con-curre(一緒に歩む)」。どちらも「競争」でなく「協力」の意味合いを持つ。古代の人たちはおそらく、自然の原理、自然界の一員としての人間のあるべき生き方を、直感的に、ホリスティックに理解していたのではないだろうか。

拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』では、「競争」を主要な原動力にする社会システムが現代の様々な問題を引き起こしていること、それらの解決のためには、自然に習って「協力」の思考と行動を増やしていくことが必要だと論じた。最新の脳神経学の知見から、人間の強みは「競争」ではなく「協力」であって、進化の主要な原動力であることも。
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宮脇方式は、自然の森と類似の樹種の多様性を人工的に施して、時間と共に自然淘汰の力を活用して、人手もあまりかけずに多様な森にしていくというストーリーだが、果たしてどこでもそうなるのかどうか、私は疑問を持っている。

宮脇植樹方式と近自然森林業での天然更新に共通するのは「密」と「種の多様性」だが、両者を比較すると、地ごしらえをして土壌を均質化し、開けた場所に同じ時期に一斉に植える宮脇方式では、自然の森にある土壌の多様性、上層木による光の多様性、更新の時間差はない、もしくは少なく、自然淘汰の機能が十分に発揮できない、機能しない限界もあると思われる。私は、現在世界に広がる宮脇ミニ森林を健全な森にしていくためには、場合によって、適切な除伐や間伐が必要になると見ている。特に高温多湿の西日本では、聞くところによると、自然淘汰が起こりにくく、もやし状のひ弱い林になっているとの観察がたくさんあるようだ。

個々の植樹地は継続して観察を行い、森を健全に多様にしていくために必要な場合は、除伐や間伐で手を入れていく必要がある。宮脇先生が理想形としている鎮守の森も、多くの場合、人の手が頻繁に入ってつくられている。

宮脇方式植樹のミニ森林の2つの写真(2014年と2021年)は、東京の二子多摩川公園で撮られたもので、関橋知巳さんからいただきました。