「人新世の資本論」を読んで、ヘッセとマルクスが繋がった

昨年から話題になっている斎藤幸平氏の「人新世の資本論」。序文にて「SDGsは大衆のアヘンである」と、市民の身近な環境行動を非生産的なものとして批判している、ということを、知人のブログで半年くらい前に読んだ。個々人の身近な行動が、意識の広がりを生み、最終的に社会を動かす力にもなっていくポテンシャルもある、という考えを私は持っているので、反発があった。また、多くの読者がこの本を手に取る前に思ったであろう「なぜ今さらマルクス?」という疑問もあった。だからしばらくの間、取り立てて読もうとも思わなかった。でも多くの読者を魅了し、力を与えている本のようなので、その真相を、他の人の書評でなく、自分自身で確かめたいという思いもあり、最近購入して読んでみた。

SDGsには、義務規制も、統一的な査定や認証の仕組みもないので、CSRと同じようにグリーンウォッシュとして悪用されることも、自己満足や、深刻な問題に目を閉じるツールとして使われることもある。斎藤氏は、資本家による利潤の蓄積が目的、機動力となっている資本主義という現代社会の問題の根本にあるものにメスを刺さずに行われている政策や運動を批判している。彼はその文脈で、代表的な運動の例としてのSDGsを挙げて「大衆のアヘン」と表現している。ただ、SDGs自体は、1992年のリオの環境会議からの活動の中で構築されてきた、包括的な指針であり、これまでの人類史にはない、人類の共通の意思表示である。私は高く評価している。その指針に命を吹き込んで行くのが個人や企業や団体や自治体や国の使命だと。

私は今年の春に出版した『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』にて、社会が変わるためには、個々の人間の心が変わることが大切だ、という経験的な認識を、私が敬愛するヘルマン・ヘッセを随所に引用して伝えた。ヘルマン・ヘッセは、1960年代から 70年代にかけての世界的な社会変革運動の活動家たちに大きな影響を与えたドイツの作家で、同じく大きな影響を与えたマルクスとよく並べられ、対比される。2人は対照的な人物だ。ヘッセも意識していたようで、「…..マルクスと私の違い。マルクスは人類を変えたい。私は個々の人間を変えたい」という短い言葉を残している。

ヘッセは、「我がまま(自身の心の奥深くにある神聖なものに従うこと)」という心の羅針盤を持った人だった。彼の作品には、世界を変えるためには、個々人の心が大切であるという思想が、共通のメロディとして流れている。それに対してマルクスは、社会制度や政治という枠組みを変えることで、世界を変えようとした、と私は理解していた。少なくとも、これまでのマルクスを思想的な支柱にした運動は、そういうアプローチだった。でもうまくいかなかった。だから、なぜに今さらマルクスか、と不思議に思った。でも斎藤氏は、新しいマルクス像を私に与えてくれた。

最近の研究で明らかになってきた晩年のマルクスの思想を、斎藤氏は『人新世の資本論』で解釈し、紹介している。それは、コモン(共有され共同管理される富)の拡張による民主的な「脱成長コミュニズム」である。過去にうまく行かなかった国家権力による社会主義や共産主義ではなく、市民や労働者が主体となった民主的な政治体制や企業・団体のマネージメントによるものである。斎藤氏は、世界中にある協同組合的な企業や市民団体の活動を、脱成長コミュニズムの芽として紹介している。経済分野においては、資本家が利潤を増やすための道具、別の言い方をすると「人材」や「労働力」である労働者が、生き物である人間として、主体的に創造的に働くことができる体制である。これら各地で発生している個々の小さな実践や活動が、世界的に繋がり、社会制度やシステムを大きく変えていく力になる、と斎藤氏は説いている。私が『多様性』の最終章で、ヘッセや脳神経学のヒューター、小澤征爾やスティング、チャック・リーヴェルなどの音楽家を引用し、描いているヴィジョン「尊厳を取り戻した個々の人間による社会の跳躍」と通じるものを感じたので、とても共感した。これまで対照的なアプローチの思想家だと認識していたヘッセとマルクスが、斎藤氏の名著により、私の中で繋がった。

投稿者: Noriaki Ikeda

日独森林環境コンサルタント 南西ドイツを拠点に、地域創生に関わる様々なテーマで、日独の「架け橋」として仕事をしています。 ・ドイツ視察セミナー ・日独プロジェクトサポート ・日独異文化マネージメントトレーニング

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