書評 「多様性」 by 落合俊也さん

ドイツ発祥のバウビオロギーと日本発祥の森林医学を取り入れた新しい設計思想「森林共生住宅」を提唱されている森林・環境建築研究所 代表の落合俊也さんから、拙著「多様性」に下記のような嬉しい感想が届きました。

『池田さんの講演はだいぶ前に聞いたことがあったし、「多様性」というタイトルは森を語るキーワードとしては特に新鮮味を感じなかった。しかし、読み進めてみると私の想像をはるかに超える深い実際的経験と知識を持って人と森の関係を掘り下げ、巧みに様々な理論で補強しているので、わかりやすく説得力があった。特に最終章は素晴らしく、2度読みしてしまったほどだ。
読み始めは林業先進国ドイツの森林産業システムと社会システムの調和的構造を自ら体験した筆者が、実に誠実にそれを紹介することから始まる。私たち日本人は、ドイツの素晴らしく整備された森林システムにはため息が出る一方で、日本の林業はだめだと考えがちである。ところが、日本の林業にも十分な潜在能力があることが示され、未来の発展に至る具体的な道筋も提案されている。
林業先進国のドイツを手本にして語られているのは、作者の経験と研究がドイツで行われたからだが、本書に続編があるとしたら、ほかの国の事例やドイツの失敗例にも幅広く目を向けて池田さん流の解説を聞いてみたいと思った。
初めに紹介したように、最後の章は珠玉の内容だと思う。池田さんはこのこと言いたくてこの本を書いたのだろうと私には思われた。ヒトの脳の構造から森と私たちの社会構造を読み解き、古くて新しい人間哲学の世界をも俯瞰した内容は新鮮だった。
多様化を理解しそれを長期的に利用した続けているソルーションこそが正しい回答であるはずなのに、近代に成立した短絡的なソルーションが大きなお金を生みだし現代産業の中枢をなしている。しかし、このような多くの金を生み出す大量生産単一化合理主義という現代の社会特性は、人類を破滅に導く可能性が高い。
終盤で作者の興味は人間の脳の構造や働きに注がれているが、脳の構造や志向を理解することで現代社会の問題点や自然との共生法のリアルな解決策を模索することができるのだろう。森を語る内容から脳を語る内容にシフトしすぎた感はあるが、優れた思想家や芸術家の思想や言葉を織り交ぜながら自分自身の発想の原点を暴露しているようで、その率直さにも好感を持った。落合俊也』

落合さんは、2020年8月に『すべては森から』という、世界の森林共生建築を紹介・解説した、カラー写真が盛り沢山の大変の価値のある本を出版されています。
https://www.amazon.co.jp/dp/4863586523

拙著「多様性〜人と森のサスティナブルな関係」
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3

本のイメージスライドショー:
https://youtu.be/ZmwJY3dijxk

書評 「多様性」 by 冨田直子さん

冨田直子さんは、有限会社 Will Wind (ウィル・ウインド)を経営されているSDGsファシリテーターです。とても感性豊かな書評をいただきました。

多様性という心地よさ

素晴らしい本に出会いました。拙稿「SDGsのすごい会社」でも取材させていただいた長瀬土建さんを知るきっかけとなった、ドイツ在住、森林コンサルタント池田憲昭さんが、このたび、『多様性:人と森のサステナブルな関係』を出版されました。

拝読し、満たされた読後感に浸っています。森の家でしばらく過ごしてきたような、森林浴をしてきたような、そんな気持ちでしょうか。

多様性が認められた世界というのは、自分自身もありのままでいることを許された世界であり、その心地よさが、この本にはあるのだと感じます。

加えて、池田さんの文体がまた心地いいのです。音楽好きの池田さんにより、音楽になぞらえた表現が随所に出てきますが、それだけでなく、池田さんのルーツや、池田さんが森や人々と向き合う中で、森の時間に寄り添えるようになっていく一連のストーリーが、登場する人物や生き物たちと共に、美しいハーモニーとなって響いてきます。

今後、森について知りたいという人がいれば、私はまずこの本を薦めるでしょう。

誰もが親しめる平易な文で、森という多機能な存在が、全方位から紹介されています。ドイツで行われてきた近自然的森林業の話から、ドイツの森林官が羨むほどに豊かな土壌、木の成長量、生物多様性を持つ日本の森の可能性、そしてドイツに習い日本でも行われている道づくりからはじめる森づくりの取り組み、さらに地域に富をもたらす多様な木材産業の話から、生活とレジャーの場としての森林までと、あらゆることに触れられています。そして、先人たちの試行錯誤により、豊かで持続可能な森と社会の在り方がドイツにはすでにあるという事実は、私たち日本人に勇気と希望をくれます。技術的な内容もわかりやすくリズミカルに書かれており、日本の森の可能性にどんどんと心が躍っていくのです。

また、SDGsの本質を学べる本としても、大いにおすすめしたい一冊です。本書では、森を通じ、SDGsのいう不可分性を感じ取れます。環境視点だけではなく、人々が森林産業を通じてどのように豊かに暮らせるか、そして、森の幼稚園といった教育や福祉、心身を癒す「Shinrin-yoku」の広がりにまで話が及びます。

さらになんといっても300年前、ドイツの森でカルロヴィッツによって生み出された「サステナビリティ」という言葉に関する丁寧な考察が、この本にはあります。人類がサステナビリティの大切さに気付いていく過程と、多様性の意義に気づいていく過程とは、まるで右足と左足の関係にあるようです。一歩ずつ歩みを続け、叡智を積み重ねてきた結果今日があるのだということが、ドイツの先人たちが辿った森との向き合いを通じて描かれています。SDGs に関わるものとして、この原点に触れられる学びは大変貴重です。

また第5章「多様性のシンフォニー」で、脳神経生物学者ゲラルト・ヒューターの著作にあると紹介されている「脳の省エネ」の話は、多くの示唆に富んでいます。人類は、最大のエネルギーを消費する脳の「省エネ化」のために、この複雑で多様な世界をあえてシンプルに捉え、生き抜いてきたというのです。よって、二項対立化、整然と整理する、単作・一律で何かを育てる、といったことは人類の生存戦略の一つであるとのこと。大変興味深く、それゆえの進化もありましたが、何事も過ぎたればです。池田さんの書かれる通り、今の持続可能なソリューションの実践者の共通項は、多様で複雑な世界を「理解し、受け入れ、多様性を活用している」という下りには共感を持って読みました。多様であることを、むしろシンプルに楽しんでしまいたい、そんな思いが、読み進める中で湧いてきます。

SDGsのいう「誰一人取り残さない」世界に向き合うには、自然界(人間界も含む)における「多様性」への理解が欠かせないと感じてきましたが、本書はそれをもう一段深いレベルで問い直す機会を私にくれました。

誰もが、種の垣根を超えた生命の尊厳と向き合い、次世代を想う数百年という時間軸と共に、自分らしく、心地よく、豊かに暮らせる世界――。これからの自分の在り方、世界の在り方を考えていくためにも、何度も読み返したい本に出会えました。そして、森づくりへの思いを、また一層強く持ちました。

是非、多くの方に読んでいただきたい一冊です。
森に散歩にいくように、またページを開きたいと思います。

冨田直子

本の販売サイト:
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世界の終わり、パラダイスのはじまり

僕ら家族は、人口2万人の街の郊外、世界の終わりに近いところに住んでいる。
歩いて10分、自転車で3分走れば、世界の終わりにたどり着ける。そこからパラダイスがはじまる。一般的にいわれる人間の想像のなかにあるパラダイスではない。このパラダイスには実態がある。観て、聴いて、触って、匂いを嗅いで、食べることができる。僕はそれを「生きた里山」と呼んでいる。

定期的な草刈りや動物の放牧で、多様に管理されたパステルグリーンの牧草地。そのなかにひっそりと、しかし確かな存在感を持って点在する農家の家々。シュヴァルツヴァルトハウスという、屋根が大きく、人間と家畜が一緒に暮らす、独特のデザインだ。牧草地を縁取り、柔らかく覆いかぶさるように森がある。トウヒやモミの木などの濃い緑の針葉樹とブナやカエデやオークなどの明るい緑の広葉樹が、モザイク状に混ざっている。人間が自然との相互作用のなかで創ってきた、そして現在でもその創作活動が続いている「生きたパラダイス」。

世界の終わり、パラダイスであるけれど、生身の人間が生活し、毎日、僕らが住む世界との交流もあるから、快適にアクセスできる道がある。交通量の少ない村道や農道は、開放感ある散歩やサイクリングができる。そこから延長して森に入っていく森林基幹道もある。表面は細かい砂利敷きの無舗装だが、丁寧で近自然的な排水措置が施してあり、轍、水溜り、凸凹もほとんどない。サンダルでも、乳母車や車椅子を押しても快適に歩くことができる。ジョギングやマウンテンバイクも気軽に安全にできる。

最近は、電動補助がついたE-Bikeなるものがかなり普及していて、これまで、勾配のある農道や森の道には自転車で入って来なかったかった元気な高齢者たちが、現代のテクノロジーの助けを借りて、森林浴スポーツを楽しんでいる。僕はハイテク技術の誘惑にはまだ屈することなく、筋肉を使って汗を掻いている。走行許可を持っている木材運搬車、トラクター、ハンターや森林官の車に、ごくたまに出逢うが、メインの利用者は、隣接する世界に住んでいる僕らのような一般庶民。僕らをパラダイスに導いてくれる大切な保養インフラだ。空想上のパラダイスと違い、毎日、好きな時間に行って、戻ってくることができる。

雨上がりの土や草木の匂い、草刈り後に散布される田舎の香水「堆肥」の匂いのなかで、耳に入ってくるのは、虫の声、鳥の声、散歩する家族やグループの喋り声、牛やヤギや羊の泣き声、トラクターのエンジンの低い回転音、といった心地よいBGM。しかし時々、現代文明社会の異音にも遭遇する。林縁の木陰のベンチがあるちょっとした広場で、若者たちのグループが、スマホからハイパワーのアウトドアスピーカーを通してアップテンポの音楽を鳴らし、食品産業が次々に生み出す「味覚デザイン」されたカクテル飲料を飲みながら、ワイワイ、ガヤガヤ、パーティをやっている。いや、若者だけではない。5月半ばの「父の日」は、親父たちが徒党を組んで、車輪のついた小さな牽引荷台に瓶ビールのケースを2ダースくらい載せて、パラダイスの農道や森道をラッパ飲みしながら騒ぎ歩くという、長年続く悪しき習慣もある。父の日なのに、家で居場所がないのかも。私は20年前の学生の頃、友人たちと予行練習をした。でも父親になってからはしていない。

このような身近で庶民的なパラダイスは、世界中いろんなところにある。消えかけているもの、となりの世界との繋がりが薄れているものもあるが、再生、発展させた事例もある。日本にも。

普通の世界の住民も、パラダイスの住民もみんな、競争をベースに金銭的利益の最大化を強いる資本主義市場のシステムのなかで生きていて、それぞれ悩みや迷い、エゴや欲がある。一方で、協力や思いやり、ユーモアや愛情といったヒューマニティも併存していて、希望や願望や喜びも持って生きている。だから、実態のあるパラダイスが存続・発展でき、となりの世界と密に繋がっていられるのだと思う。

新刊「多様性〜人と森のサスティナブルな関係」では、そんな身近なパラダイスと、その背景にあるものも描いています。
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書評 「多様性」 by 浅輪剛博さん

「自然エネルギーネット信州(http://www.shin-ene.net)」の浅輪さんから、拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』に、うれしい書評が届きました。
浅輪さんは、私の本からインスピレーションを受けて、「交換価値」と「使用価値」の論を展開されています。私が本では使っていない言葉です。多様な人が、本から多様な刺激を受けて、話が広がり、深まっていくのは、とても嬉しいことです。
浅輪さんら「自然エネルギーネット信州」は、CO2削減や個々の技術や経済性だけの狭い観点からだけで自然エネルギーに取り組むのではなく、地域の人々の生活にとっての多様な「使用価値」の創出を目指されています。

これは、森林に関わる全てのひとにとって必読の書です。
そして、森林とは直接関係はなくとも、持続可能ということに関心がある人にも強く薦めたいです。書名が「多様性」であるように、この本は、持続可能な森林業のノウハウが盛りだくさんであるだけではなく、なぜそのような制度ができたのか、その根本まで探る本だからです。つまり、根幹には「均一化ではなく、多様性」を尊ぶ生きかた、そして考えかたがあった、ということです。
日本では、欧州の先端的な林業の技術のそれぞれを切り出して輸入しようという動きが多いそうですが、著者の池田憲昭氏は、大事なのは、一つ一つの技術や制度ではなくて、その全体の多様な関係性だと論じています。その関係性を見つけ繋げ合う視点や考え方の転換がないといけないといいます。そう思って本書を読み返すといちいち腑に落ちると言うか、持続可能な森林との関わりかたのどれもが、そりゃそうだよね、当たり前だよね、と感じるのです。今まで、大型先進機械で自動化し樹種も単一化すれば効率的になって役立つ、そりゃそうだと思っていたのが嘘のようになります。それは多様性の大事さに気づく価値観の転換が起きるからだと思います。
本書の最終章で脳神経学からこのマインドセットの違いの謎を著者は解き明かそうとしています。非常に得心が行く章です。
ここでは経済学の課題からもその重要性に触れてみます。
物の価値には大きく二種類あります。一つはそれを使う価値。もう一つはそれを他のものと交換してどのくらいになるかという価値です。前者を使用価値、後者を交換価値といいます。
ここで、使用価値は使用する人にとってその価値が非常に分かりやすいものです。しかし、社会一般的には分かりにくい。なぜならある物の使用価値はまさに多様であり多面的だから、ある人の使い方と他の人の使い方は違うことが多いからです。まさに森林、樹木のようです。森の価値は材木でもあり、観光でもあり、災害対策でもあり、幼稚園でもあります。
それに対して、交換価値は逆に個人にとっては非常に分かりにくい。他人に交換してもらわない限り、どのくらいの価値があるのか自分ひとりでは分からないからです。そこで社会は全ての交換価値を一つの貨幣で表す制度を生み出しました。これが貨幣形態です。一般的等価形態ともいいます。社会にとっては値段と売れ行きさえ見れば一瞬で価値が分かる、非常に分かりやすいものなのです。
現代社会で様々なものを均一化させようとする大きな力は、この貨幣形態から起き、また、貨幣と商品を交換し続けることによって利潤、つまり資本を増大させようとする力から起きているのです。多面的機能を持つ多様な森林も、貨幣効率・資本最大利潤を最優先させるこの力によって、モノポリーな単一種栽培の畑のようにした方が良い、と人々は思い込んでしまうのです。(著者は前者を森林業、後者を林業と区別します。)最小限の貨幣で最大の貨幣を得る、その一面に集中して、資源の多様な可能性ーー使用価値を探ろうとしない。これが、自然と調和しない持続不可能な林業を産んでいるのではと考えます。
これはもちろん森林だけに関わらず、土壌を衰退させるような農業や、自動車交通を優先させてスプロール化する都市や、遠方の化石資源を燃料とし地域分散型エネルギーに着目しないエネルギー産業、そして健康で文化的な生活条件を整えるよりも、どれだけ財政負担を減らして生産効率を上げるかだけに専念する政治経済システムなどにも及ぶ、大きな現代の問題につながっています。
森林から始めて、多様性まで解き明かすこの本は、こんな広がりを持っています。多面的な機能、多様性の持つ豊かさ、それを活かす「持続可能な森林業」は、交換価値よりも軽視されてきた、環境がもつ多様な使用価値を探り出す取り組みでもあり、著者の示す多様な森林業の織りなす房は、まさにそのような価値観があったからこそ工夫され出来てきたものだと思います。
私は信州で自然エネルギーを活用する仕事をしています。これも単に個別の技術を切り出して拡大するというのではなく、地域に色々ある資源やエネルギーの多様性、様々なより良い可能性を見つけ、今まで気づかなかった地域の生活にとっての使用価値を発見していくーー省エネやシェアやマテリアルとしての活用も含めーーそのような全体的な視野も伴う必要がある仕事だと感じ入った次第です。
制度や義務だけでは人は本当に動きはしません。共感、感動、信念、そしてディグニティ(尊厳)が行動の根幹にあるのです。本書でそれを痛感させられました。
論語に言うように、
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

浅輪剛博

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書評「多様性」by 藤森隆郎さん

藤森隆郎さんは、1938年生まれ、日本を代表する森林生態学者で、国際的にも活躍をされた方です。「気候変動枠組み条約政府間パネル(IPCC)」が2007年にノーベル平和賞を受賞したことをに貢献したとして、IPCC議長から表彰を受けられています。
2010年の日本森林再生プラン実践事業の際に、私は藤森さんと数回に渡って交流させていただきました。
藤森さんは、現役引退後も熱心な活動をされており、2015年には、ドイツ・ドレスデン工科大学の造林学のワグナー教授に、講演会の講師として招待されています。その講演会のポスターには「藤森氏の書いた本は、リオ会議以降の森林管理の理念である持続可能な森林管理に、恐らく世界で初めて科学的根拠を与えたものであろう」という一文が記されていました。
藤森さんは、生態学の観点からの森づくりを、半世紀に渡って研究し、提唱され、国際的に高い評価を受けられていますが、自国日本においては、林業や政策の実情と、自身の科学的見解・理想との間の大きな隔たりに、苦悩され続けた方です。数年前には、ドイツのワグナー教授の希望を受けて、日本の現役の研究者の人たちに日独交流を勧められたようですが、研究の方向性の違いなどから、残念ながらうまく繋がらなかったようです。
そのような苦悩や挫折もありながらも、80歳を超えられた現在でも「国民森林会議」の会長として、実直に政策提言や啓蒙活動をされています。
数々の書籍も出されている大先輩にあたる大御所の藤森さんから、今回の私の本「多様性〜人と森のサスティナブルな関係」に、とても個人的で誠実な書評をいただきました。「客観性」を最重視しなければならない厳しい研究の世界で生きてこられた方から、専門的であると同時に、個人的な文章をいただけたことに、大変感銘を受けました。私は自分の生い立ちと体験に基づいて、主観と客観の融合、文学や哲学と自然科学の融合の大切さをこの本で描いたつもりですが、藤森さんの了解を得た上で下記に掲載する私個人宛の約1万2000字の心のこもった長文は、質・量ともに、私が拙著に関してこれまでに貰った中で、最大のプレゼントです。

この本の内容の深さに感動いたしました。その内容の背景には池田さんのこれまでに歩んでこられた道があり、その体験、勉強、思索があります。この体験と勉強に基づく思索が説得力のある内容になっていると思います。私がその内容に納得し、感銘を受けたのは、基本的には私が求めてきた森林と人間社会の関係のあり方と同じものだからです。しかしその上に、御著書は人間を自然、生態系の中の脳の進化の著しい生物の一種として捉え、人間の尊厳を自然界の中で捉えるところまで掘り下げて洞察を深めておられるところがすごいと思いました。人間の尊厳は自然界の(生物)多様性と一体的なものであることの重さをしっかりと説明されています。それを基に、人間のあり方、社会のあり方を問うておられ、大いに学ばせていただきました。

 これから本書の感想を書かせていただくに当たり、私が森林・林業の道に入った動機や、その後の歩みをごく簡単に紹介させていただきます。そのことが私の感想をより理解していただきやすくすると思う次第です。

私が森林の道に入った動機は、池田さんのそれに少し似たところもあります。私は高校生になって、大学進学を考えていたときに、自分は将来どのような仕事に就くのかを考えました。自分の才能に照らして、どういう仕事を目指せばよいのかを一応真剣に考えました。しかし自分にはこれはという自信のある才能は感じられませんでした。では普通のサラリーマンでよいのかを考えましたが、私の耳に入ってきた組織の中での自由度の小ささというものにはなじめませんでした。そして普段の生活において肌で感じたのは、便利さを求めて様々な製品が次々に出てきて、それに振り回されていることの空しさのようなものでした。また戦後価値観が急激に変わるなどして、変化の激しい不安定さも感じられました。

 その様にして自分は何を目指すかは定めがつかず、結局消去法で「森林を相手にする何らかの仕事」という漠然たるものを選び、農学部の林学科に入りました。私の生まれ育った京都市の周囲は山に囲まれていて、子供の頃から昆虫採集などで森に入ることが多く、「ゆっくりとした、何か安心感のある森林」を相手にする仕事に連なる林学を選びました。「何になる」ではなく、「何を相手にするか」だけの選択でした。就職に際しては、仕事を保障されている公務員を選び、2年ぐらいごとにポストが代わっていく行政職を避け、腰を落ち着けて仕事を続けていける研究職を選びました。研究者や学者になりたかったのではなく、森林とゆっくり付き合っていける研究職を選んだだけのことでした。自主性のない判断をしていましたが、自分の個性を考えていたことは自分でも評価できると思います。

 大学で2年間林学を学びましたが、林学の本質は何かというものが見えないままでした。公務員試験の専門の問題も、「林学とは何か」の見えないバラバラの寄せ集めのようなものでした。私は森林総合研究所の造林部で研究を続けましたが、そこでも林学全体を貫く、林学原論のようなものは見えないままできました。そういう中で仕事をしながら、自分は何をどうしていけばよいのかを常に考え続けてきました。そして40代の後半ぐらいになると森林・林業の理念は「持続可能な森林管理」であることが見えてきて、それからはそれに連なる世界の文献(森林生態系に関する英文のものが主体)を一所懸命に読むようになりました。それらの中の優れた知見に、自分の研究成果を落とし込み、10年以上かけて持続可能な森林管理のための生態学的、造林学的な理論的根拠に近づけることができました。

 その間の研究のモチベーションとして常にあったのは、私が森林を相手とする仕事を選んだのは、「森林に何となく感じる安心感と信頼感とは一体何か」ということの探索でした。そしてそれは「森林の時間は長く、ゆっくりと動いているが、長期的に見ると多様性に向かって動いている」と言う法則性にあると感じるようになりました。そしてそういう森林の時間と人間の時間との間で、どういう森林との付き合い方が望ましいのかを考え、森林の管理技術を考えて行くのが自分の仕事だと考えるようになりました。

 私が探求してきたのはそこまでですが、池田さんは人間を生態系の中の脳の進化の著しい生物の一種として捉え、そこまで掘り下げて森林と人間の関わりのあり方に言及しておられます。それはすごいことであり、大変勉強になり、ありがたく思っております。全体を通して殆ど納得づくしです。それは基本的に私の考えと同じで、しかもそれを生態系の中の人間の特色を強く踏まえておられるところにより深みと本質があるからだと思います。

以下に,一応は頁に沿って感想を書かせていただきます。

 先に私は、日本の大学で林学を学び、その底の浅さに失望したことを書きましたが、21頁辺りに、池田さんがドイツの大学で、「物事の現状と過去を包括的に把握し、様々な方向にバランスの取れた、実現可能な未来のソリューションを導き出し、その実践プランをつくること」を学ばれたと書かれているのを読み、誠にうらやましく思いました。そして今も変わらぬ、否、ますます悪くなっている日本の教育に強い危機感を覚えます。

 9頁を始め、随所で「『林業』ではなく『森林業』と呼びたい」とおっしゃっているのは理解でき、これからはそうあるべきだと私も思います。ただこれまでの経緯も引きずっていますので、私は、ここでは多くのところで「林業」、「林学」と呼ばせていただくところが多く、用語の使い方の統一性のないことをお断りしておきます。

 35頁の林業家のヴァルター・フレッヒの「森林業のロマン、それは将来のことを考えることであり、森林業は次世代への責任意識を育む」という言葉は素晴らし言葉だと思います。現代の民主主義には参加できない次世代以降への責任感は、生物の1種としての我々に絶対必要なものであり、そういうものをロマンとして感じさせる森林業は素晴らしものだと思います。

 37頁の、「継続的に生産していくためには、生産基盤である土壌と生態環境をしっかりと守り育てなければならない。そのためには自然の仕組み、森という複合的な生態系をしっかりと理解する必要がある」と書いておられるのは生態的に見て非常に大事なところであることは言うまでもありません。ここのところを私はずっと研究してきましたので、よく理解できます。

 44頁辺りの、ドイツにおける森林との付き合い方の対応策がよくできているのを読むと、ヨーロッパ諸国同士の情報交換や交流がよくできているからだと感じられます。私は1980年にドイツのゲッティンゲンで開催されたIUFRO の「造林、経営部会」の研究集会に出席したことがありました。その時にドイツの人は、「ドイツの林業経営は苦しい」と言っていました。しかしその会議の合間に、ドイツとスエーデンの研究者と機械メーカーの人達が真剣に話し合っているのが印象的でした。ドイツの林業(森林業)が再生してきた伏線の中にはそういう要素もあったのではないかと思います。

 大気汚染(酸性雨)や気象災害(暴風雨)の被害を受けての後からのモノカルチャーへの反省と、近自然林業、持続可能な森林管理への覚醒も近隣国同士の情報交換と学び合う姿勢があってのことかと思われます。日本も1981年の大冠雪害や、1991年の台風の大被害をはじめとする気象災害を度々経験していながら、ドイツ、ヨーロッパのような動きは見られないままです。これは行政が自分たちの失敗を認めようとしない体質と、近隣の国からの刺激がないことに拠るものだと思います。誠に残念なことです。日本には学び合うという姿勢が大きく欠如しています。

 45頁のヘッセの奥深い自然哲学には感銘いたしました。私が若いときに何となく感じた「森林に対する安心感、信頼感」とはどういうものなのかは、ヘッセのここにある言葉の中に見出されるように思います。私なんかにとても表現できない奥深い言葉です。

 50頁の「将来に『気配り』をする選木作業によって、「森林業のロマン」が心の中に生じる」という言葉は、非常によい言葉だと思います。私たち研究者はそういう中において科学的根拠を提供していきたいものです。

 60~65頁 ここに「日本の自然の豊かさ」を活かす森林業のあり方が述べられています。

これはその通りで異論はありません。しかし、日本の森林・林業関係者と、それに感心の高い国民にそのことを言っても、すぐに理解できる人は少ないと思います。そこで私は次のように考えています。

 日本の自然が豊かであることは、植物の再生力の高さを意味します。それは目的樹種よりも早生の雑草木の繁茂の激しさを意味します。日本の下刈り、つる切りまでの初期保育の経費は、他の温帯諸国のそれの10倍かかっているという報告があります。このことだけからも、短伐期の繰り返しは避けるべきことを強調しなければなりません。その上に短伐期の繰り返しは、生物多様性をはじめとする多面的機能の発揮に反し、持続可能な森林管理に反することをしっかりと説明していく必要があります。そして短伐期から長伐期多間伐施業へ、長伐期多間伐施業を進めながら択伐林化、混交林化へと進めていくことの必要性、すなわち「構造の豊かな森林」を目指して行くというストーリーを語ることが必要だと思います。

 ドイツのフォレスターが述べているように、日本の自然環境下の森林は特に気配りをする繊細な取り扱いが必要であり、「木の畑」にするのではなく「森林業」にしなければならないプロセスを丁寧に説明していくことが必要だと思います。これからの森づくりの実践のために道づくりが必要なのだとフォレスターは話していましたが、日本はフォレスターの「森づくりのコンセプト」に耳を貸そうとはしていなかったように思います。ここを変えていくことこそ大事だと思います。

 68頁~72頁 日本の蓄積と成長量の統計資料の数値の問題点はご指摘の通りです。現在用いられている収穫表は、戦後の資源供給増大の都合から、短伐期を正当化するために意図的に作成されたもので、実態に合っていないことは明らかです。私が現役最後の頃にこのことと、材積だけの測定の問題点を研究者仲間達と共に行政に対して強く主張し、不十分なものではありますが「生態系多様性基礎調査」の基になるものをスタートさせました。それで収穫表に基づく資料のおかしさは明らかになってきましたが、行政が今後いかに基礎調査の資料を公式のものとして扱っていくかが問われています。

 多機能を論じるならば、量だけでなく、質や種数、その他の項目も複合的に考慮しなければならないというご指摘は誠にその通りです。

 73~84頁 「新幹線」の評価と「森林基幹道」、私は道の専門知識は不十分ですが、ここのところは大変分かりやすく、説得力のある内容だと思います。私は林業(森林業)の生産工場は森林生態系であり、その中に動脈と静脈のように張り巡らされる道によって生産工場は上手く可動していくものだと思っています。

 鶴居と岐阜県の実績は素晴らしいもので、その広がりを期待いたします。私は鶴居の道は視察し、立派なものだと思いました。残念ながら岐阜県のものは見ていませんが、長瀬氏のような方の存在は非常に貴重だと思います。日本では一カ所に長く居続けて仕事を継続できる優れた存在が育ちにくい中で、長瀬氏のような技術者の存在は非常に大事だと思います。

 2012年にドイツのフォレスター、池田さんが伊勢神宮を視察されたときに、私も参加させていただき、その時に長瀬氏と一度お会いしました。それ以来年賀状をいただいておりますが、長瀬氏がこのように活躍しておられるのを知り大変嬉しく思いました。

 85頁の「間伐とは」は、お書きになっている通りだと思います。すなわち間伐により森林生態系を健全にし、目的樹種、目的個体の成長を促進するということなどです。そうお断りした上で、幹の質と量を重視した間伐の研究を行ってきた私が、特に間伐に関して感じていることをここで書かせていただきます。その視点から間伐を突き詰めていくと次のようではないかと考えております。すなわち「間伐とは、生産目的樹種とその中の主な生産対象の個体の樹冠に光を有効に配分していく技術」ということです。

 先に私は、森林生態系が木材生産工場だという表現をしましたが、森林生態系の中でも焦点を絞れば、光合成を司っている樹冠が生産工場の主体だと言えます。幹の形質と量は、樹冠構造の発達の軌跡であるといえます。したがって幹の生産技術は、「樹冠の管理技術」だと言えると思います。ここでいう質とは、樹冠構造の軌跡と深い関係を持つ、年輪構成と節の分布であり、樹冠の均斉と関係する通直性を指すものです。

 私は長年間伐と枝打ちの研究を行ってきたことから、間伐を樹冠管理技術として捉えるようになりました。もちろん間伐によって下層に光を入れて、生態系を豊かにしていくということなど、間伐には色々な意味はありますが、生産技術としてのポイントは「樹冠管理技術」にあると思っております。私が打ち込んできた研究の想いから、つい余分なことを言ってしまったかも知れません。ご容赦ください。生態系管理としての間伐の重要性は私も全く同感です。

 46~50頁と86~88頁にある「将来木施業」は、目指すべき森林の姿「目標林型」を考えた優れた間伐の体系だと思います。私も40年ぐらい前から間伐の選木は将来木施業に通じるやり方を推奨してきましたが、それは将来木が多目のものでした。しかし「構造の多様な森林」を目指すためには、ドイツのフォレスター達が提示した、将来木を絞りきった「将来木施業」の良さを理解することができました。

 ただ、日本とヨーロッパの緯度の違いから来る自然間引きの違い方、日本の湿雪条件などから、将来木の周りの木だけを間伐するのではなく、残りの部分に存在する木の集団の過密化を避けるための間伐も日本では必要なことは、「現代林業」の「誌上討論」(2011年か2012年だったと思います)で述べさせていただいた通りです。

 「将来木施業」は、「まとめたい、そろえたい、均質化したいという近代社会の大量生産の単純化のコンセプト」に対する「多様性のコンセプト」への実践方法として大きな意義を有するものだと思います。「『単純化のコンセプト』の普及と洗脳によって自分自身への『尊厳』も失いかけている、忘れている状態だから、『生』を感じる『多様性のコンセプト』に憧れと新鮮さを感じるのではないだろうか」という言葉は本書を貫く非常に大事な言葉だと思います。日本人が、日本の林業関係者がこの言葉にどれだけ共感できるかに、日本の将来はかかっているように思います。

 90頁 「人工林」、「天然林」、「二次林」という用語が使われています。この用語区分の中で「二次林」という用語を「人工林」、「天然林と」言う用語と並列して使うのは、用語の定義に照らして、区分基準が不統一なために不適切だと思います。「二次林とは、遷移の初期から極相に至るまでの、遷移の途中段階の森林」と学術的には定義されています。したがって厳密に言うと人工林も二次林ということになります。それに対して「人工林」、「天然林」は、「人為の関わり方の度合い」の区分です。

用語を並べるときは、区分基準が同じものを並べる必要があります。「森林管理」に関わる議論では、「人為の関わり方」による区分が適切なのだと思います。とすれば、「二次林」ではなく「天然生林」が適切かと思います。天然生林の定義は、明確でない場合もありますが、国際的に理解されている定義からは、「天然更新により成立したが、人為の及んでいる森林」ということで良さそうです。英語でも様々な呼び方がされていますが、semi-natural forest と呼ばれていることが多いようです。萌芽更新の薪炭林は天然生林に入ります。「天然林」は「天然更新により成立し、人手の入っていないもの」または「かつては人手が入っていたが、その後長期にわたって自然状態にあり、人手の入った痕跡の見えなくなっているもの」というのが一般的な定義です。

 以上のことから、「二次林」を「天然生林」に置き換えるのが適切かと思います。

 115~117頁 「産業革命以来、人間の思考に植え付けられてきた『大きい方がよい』という先入観から人間は解放されなければならない。小さいプレーヤーほど、速くフレクシブルに反応できる。だからこそ小さくフレクシブルなプレーヤーをより大切にしなければならない。」は非常に重要な視点だと思います。これは「多様性重視」に結びつく大事なところだと思います。

 また「森林所有者は、数世代先までを考えた、大きさや種類が様々な原木を保続的に供給できる森づくりを考え、地域の『森林―木材クラスター』に貢献することが不可欠である」ということは基本的に重要なことであり、これは木材産業、利用者側もよく理解しなければならないことだと思います。今の日本に大きく欠けているところはここだろうと思います。

 「森のロマンあっての地域木材産業」というのはよい言葉だと思います。

 118~121頁 「職人養成システム」については、私はかつてから関心があるところです。大工職人や木工職人のような仕事は大事な「多様性」に通じる仕事だと思います。

 私の孫が小学校4年生だった時に、クラスで「自分の得意なこと」を発表する授業があり、それを参観したことがありました。その時に、「将来何になりなりたいか」というアンケートがあり、男の子は「野球選手、サッカー選手」が多かった中で、「大工さん」という子が2人もいました。プロのスポーツ選手になることの厳しさはそのうちに分かるでしょうが、大工はなろうとすればなれます。しかしその子達は大工職人の社会的評価の低さなどから、その夢を捨てて行かざるを得ないことを心配します。ドイツのような職人養成システムがあれば、子供の夢は実現しやすくなるでしょう。日本では「匠」と呼ばれる個人は尊敬はされますが、技術者集団としての大工職人の評価はされていないのは問題です。

 山で木の個性を判断する育林技術者、利用の場で木の個性を判断する大工技術者、いずれも人間と木の「多様性」のマッチングとして大切で、それらの育成機関の存在が重要であり、ここのところを日本は真剣に考えることが大事だと思います。

 「ドイツの手工業職人の84%は自分の職業に誇りを持っている」(128頁)というのはうらやましい限りです。

 160頁 「生活感のある普通のところで、自然や本当の文化を体験し、ゆっくり過ごせる民宿業」というのは非常に大事だと思います。農林業と観光業を上手く結びつけた複合経営は、日本でももっと広げることができると思います。日本の自然の豊かさ、例えば梅雨の頃のホタル、夏の多様な蝉の声、夏から秋にかけての虫の声など、花、新緑、紅葉以外にも売り物は贅沢なほどあるはずです。そのためには農山村の人達が地域の自然をもっと勉強する必要があると思います。そして願わくは、それと連動して、農薬、除草剤をどこまで抑制できるかの努力にも繋がることを願っています。

 161頁 「森の幼稚園」の素晴らしさには全く同感いたします。私は普通の幼稚園に通いましたが、京都市内の私の家から5分以内のところに下鴨神社と鴨川があり、下鴨神社の境内林と鴨川の自然の中で、年上や年下の子と遊んだことは、私の幼少期の人間形成に大事な働きがあったと思っています。

 秋田県に佐藤清太郎という150haの森林を所有する農家林家の方がおられますが、この方は台風被害の教訓から、林業から合自然の森林業に切り替えておられます。そして以前から、50haの森林を地域の市民のために会員制にして開放し、特に地域の幼稚園の屋外教育に協力しておられます。雨の時には、屋内で遊べるように自前で教室の建物まで建てておられ、その教室に貼ってある幼児の絵を見ると、その感性の豊かさに驚かされます。それは普通の幼稚園の子のものとは明らかに違います。

 日本でも森の幼稚園の例の話は聞きますが、それは極めてわずかのようです。偏差値教育の日本の中で、森の幼稚園がどこまで普及できるか分かりませんが、よい事例が広まって

普及していくことを願います。

 172頁 「植物は他の生物が生きる土台を生産している。植物は音楽でいうと、ハーモニー、リズム、メロデイーという曲の骨格をクリエイトする存在」と述べられています。私が森林を相手にした仕事を選んだ動機として、森林に対する「安心感」、「信頼感」があったと申しましたが、本書のこの言葉に接して、その背後にはこういうものがあったのかと思います。私が自分の仕事のスタートに立った頃に、何年にもわたり、モーツアルトやベートーベンなどのクラッシック曲を夢中で聴いたことを思い出します。そしてその時に「モーツアルトの曲が時代を超えて世界中で愛され続けているのは、その曲には森の中の枝葉の風にそよぐリズム、メロデイー、ハーモニーがあるからだといわれている」という解説を聞いてなるほどと頷いたことを思い出します。生物の一種であり、森の中で進化してきた人間のDNAには、森の音に心地よさを感じるものがあるのだと思います。

 175~180頁 「根の先端部分には、様々な環境情報を識別して感知する能力があり、経験情報が記憶され、人間や動物の脳のように決断を下していることが推察される」というのはなるほどと納得出来ます。そして「ある木が害虫の被害を受けると、それに対するフィトンチッドを発して他の木に伝え、それを受けた木は菌根菌の活性を促し自衛するといった対応能力を発揮する」ということは、「なるほど」と納得出来ます。このような自然の摂理の前に我々はもっと謙虚にならなければならないと思います。

それに対して、「人間は生活の枠組み条件である自然環境を大きく変える、もしくは形作る能力を身につけた。それによって自然の束縛から解放されたような錯覚を持つようになった。自分たちが自然の一部であり、自然に依存している、生かされているという生物界の大原則を無視するようになった」と述べ、再び上述のような自然の摂理に基づき、「これらは、現在の人類が招いている危機的状況を脱し、地球と共に持続可能な未来を築いていくための哲学、コンセプト、指針に連なるものではないだろうか」という重たい言葉に結びついています。この脈絡は大変重要で、重く受け止めなければなりません。

「樹木、森林が私たちに示しているものは何か。連帯による問題解決。経験や情報を蓄積し、みんなで共有して、将来に備えていく予備的な対策も講じる」という言葉、「森から学ぶ」ということを、ここまで掘り下げて分かりやすく説明されているところは素晴らしいと思います。

192~194頁 「子供の脳の発達にとって『結びつき』と『探索』が大事。例えば森の中での『感動』と『感激』はこれらを十分に満たす。それに対して自発的な探索を制限し、均一に扱い知識を詰め込もうとする教育は好ましくない。さらには大人になって、社員やメンバーの管理を強めようとする企業や国家のあり方も好ましくない」というのは全く同感です。

「資本主義経済システムの基本原理である『競争原理』はダーウインの進化論の後押しを受けて、資本主義システムの原動力として大きく持ち上げられた。生きるために大事な創造力は、競争圧力がないリラックスした環境から生まれる。自発的に探索できる環境があって,初めて新しい脳神経ネットワークが形成され、人間は新しい能力を習得できる」というのは重要なところだと思います。「競争」をなくすことはできませんが、いかにその過剰な圧力をなくし、自発的に探索できるリラックスできる環境を作っていくかが大事だと思います。「競争」よりも「協力」を求めていくことが大事なのだと言えると思います。

201頁の第2パラグラフ ここに書かれていることこそは、日本の森林・林業関係者はもとより、国民が真剣に受け止めなければならない大事なところです。要約すると次のことです。

「ドイツで50年前に『林業』が『森林業』に大きく跳躍したことの根本にあるのは、法律・制度や技術ではない。それらを創った人達の心、ならびに、彼らの心に深く、『持続可能』の影響を与えた大小の様々なパイオニア達のスピリットが根幹にある。森林の分野では、社会風潮や時代潮流に流されない学者や森林官、小さな現場の実践者達の『想い』と『努力』がある。かつて世間から『非現実的な夢想家』と捉えられていた、未来を想う地域の小さなパイオニアや発明家たちの何を言われても、何度失敗してもめげない、諦めない精神と、絶え間ない努力とアピールにある。」というところです。ここのところを理解することは、日本にとって本当に重要なところです。

202頁 「現代社会はこのままでは潰れてしまう。『自然との共生』、『仲間との協働』をベースにしたソリューションが早急に求められる」というところを読みながら、私が6年前にドイツを訪ねた時のボン近くの森林管理局のハンス局長が同じようなことを熱く語っておられたのを思い出しました。局長は1日付き合ってくださいましたが、その時に上記のような言葉と共に「我々先進国は自然との共生の範を示していかなければならない」と熱意を込めて語っておられたのが強く心に残っています。日本の行政の幹部にこういうことを心の底から言える人はおらず、ドイツとの違いを強く感じざるを得ませんでした。

203~205頁 ここに「尊厳」という大事な言葉が出てきます。206頁以降にカントの言葉などを通して「尊厳」の意味が吟味されていますが、その様なところまでは限られた時間で私には十分な理解が難しいので、ここの頁のところでまず、「尊厳」の意味を私なりに整理させていただきたく思います。

「家族を、子供を、未来を想う、人間の力を信じる人々の『心持ち』すなわち『心の羅針盤』。心の羅針盤はそれぞれの人が持っている。心の羅針盤は同じ方向を向いているか。答えはイエスである。それが人間の尊厳である」というところは非常に重要なところだと思います。

これを私なりに解釈させていただくと、それぞれの人間が常に「何が正しいか」を考え、「心の羅針盤」を高めていくところに「尊厳」があるのではないかと思います。「何が正しいか」は自然(人間を含む)をよく知り、経験を生かし、未来を考えることなどを通して探索され、それが協調、協力、協働などの原動力になるものと思います。「羅針盤は同じ方向を向いている」というのは、羅針盤は、協調や協力などを生む力を持っていると理解したく思います。

「尊厳」という言葉は非常に重要な言葉ですが、カント等の言葉を十分に咀嚼できる力は今の私にはなく、上記のように私なりに解釈させていただきました。これだけでも今の私にとってはすごく勉強になりました。

209頁 「50年以上にわたって戦争、紛争のない国で、尊厳が守られているかというとそうではない。その主な原因は競争を主要原理とする資本主義と市場原理システムであり、それに影響を受ける教育や社会システムである。」

資本主義と市場原理システム、その影響を受けた教育や社会システムの問題は、多くの人達の指摘するところですが、「人間の尊厳」にまで掘り下げて語られているものは少なく、ここが本書の優れたところだと思います。

211頁 「地球上で人間が『生きる道』は脳のポテンシャルを活かし、発展(展開)させることだ。その『道』は『競争』ではなく、『協力』によって歩むことができる。個々の人間が『結びつき』と『探索』という基本欲求を満たし、『尊厳』を互いに尊重し合うことで、『道』は開かれていく。」この文章は本書のこれまでの様々な考察を踏まえた優れたエッセンスだと思います。

217頁 「今の人類が、最も必要としているのは、テクノロジーでも、社会制度でも、イデオロギーでも、新しい政治のリーダーでもない。誰もが喜びと希望を持って、一緒に関わることのできる『主体』である。森は恐らくその最有力候補の一つだろう。」

この言葉は素晴らしいと思います。ここまで言い切れるのは、本書の深い探索による内容があってのことです。そういうことからも本書は多くの方々に読んでいただきたいものです。

以上のように頁を追って感想を書いてきましたが、私が本書から最も強く学んだところは次のようなところです。

私は、人類社会にとって、最も大事なことは「持続可能な(循環型)社会の構築」であり、そのために自然生態系を正しく知り、社会的正当性は何かを考え、社会、経済的システム、技術、それらを担保する法律、制度などを求めていくことにあると思ってきました。

この「自然」と「社会的正当性」の両者を合わせ考えていく時には、「自然生態系の中で脳の特別に進化した人間の、脳の働きまでを正しく理解していかなければならない」ということを本書から強く学びました。「人間社会に必要な『協力』は、脳のポテンシャルをリラックスな状態で高めることによってできる。個性を重んじることによってそれを高めることができる。」などということを学ぶことによって、「森と正しく付き合っていく」ことの話がより分かりやすくできるようになったと思います。「多様性」という言葉の意義をここまで説明されたことに心から敬意を抱いております。

私は、「持続可能な森林管理」について、その基盤となる森林生態系の理論から論じてきました。生物の1種としての人間の特性にまでは言及できていませんが、その要点を一応紹介させていただきます。

「持続可能な森林管理」の実践には様々な立場の人達の合意形成が必要です。そのためにはやはり森林生態系の正しい知識がまず必要です。様々な立場の人達の議論には「森林生態系の多様な機能とサービス(恩恵)」の理解が必要です。「森林の機能」は「森林の構造」と一体的です。「機能」はなかなか見えにくいものですが、「構造」は誰もが目の前で見ることができます。したがって森林の構造と機能との関係を求めていくことが必要です。森林の構造は時間と共に変化していきます。その変化の法則性を捉えることは、森林の管理技術にとってまず必要です。

私は世界の多くの文献(英文のものが主ですが)に私の調査を加えて、「林分の発達段階」のおよその法則性を整理しました。そして林分の発達段階に応じた機能の変化に関する世界の文献を探索し、「林分の発達段階と機能の変化の関係」を整理しました。時間方向の個々の機能の変化の論文はありましたが、お互いの機能の変化の関係を論じたものは見当たりませんでした。そこで私は「林分の発達段階と諸機能の変化との関係」を一つの図の上に示し、それを基に「持続可能な森林管理」のあり方を論じてきました。

私は2016年に、「林業がつくる日本の森林」という本を出しました。この本は、森林・林業関係者と、森林・林業に関心のある市民・国民に向けて書いた本ですが、その中に上述したことを分かりやすいように説明しています。またこの本では「地球環境問題」に照らして、「森林・林業と地域社会のあり方」を考察しています。その考えの基本は次のところにあります。「地球生態系は、地域の生態系の集まったものである。だから地球環境問題の解決は、それぞれの地域の生態系にできる限り沿った生活と産業様式を求めていくことにある」として、それぞれの地域の林業と関連産業の重要性を説いたものです。残念ながらこの本には池田さんの御著書のように、人間そのもののあり方にまで踏み込めていないので、それまでの程度のものだと思います。ただ日本の現状の中においては、それなりの役割を果たしているものと思います。また、この本を執筆した動機の一つに、その前年にドイツで見聞し、触発されたたことも関係しています。

御著書を読み、大変勉強になりました。有り難うございました。

藤森隆郎

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https://youtu.be/ZmwJY3dijxk

書評「多様性」by 中村幹広さん

中村幹広さんは、岐阜県庁の職員。10年以上の付き合いで、岐阜県における森林業の日独共同の事業の立役者です。私が本にも書いている岐阜県の森林での数年にわたる貴重なプロセスを分かち合った、語学の才能と文才がある中村さんに、「ぜひ書評を」とお願いし、快く書いてもらいました。

本書のタイトルである「多様性 Vielfalt」という単語は、私が紐解いたドイツ語辞典によれば、18世紀末に「vielfältig 多種多様な」という言葉から逆成されたものらしい。
言語は時代の変遷とともに変化していくのが世の常であり、例えば最近よく耳にするようになった「biodiversity 生物多様性」という単語もまた、1985年にアメリカで「生物的な biological」と「多様性 diversity」という2つの言葉を組み合わせて生まれた比較的新しい造語である。しかし今日では、そのポジティブな意味合いや耳当たりの良い言葉の響きと相まって、かなり一般的に使われるようになっている。
とはいえ、この「生物多様性」という単語も2010 年に愛知県で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10:the 10th Conference of the Parties)で大きく取り上げられるまでは、私たちには余り耳慣れない新しい言葉だった。
こうした事実を踏まえると、本書のあちこちに登場する森林・林業関係者であれば誰しもがきっと今は違和感を抱いてしまうであろう著者こだわりの言葉遣い、具体的には「林業」ではなく「森林業」、「所有林」ではなく「所有森」、そのほかにも「恒続森」や「択伐森」、「新・幹線」といった「いわゆる造語、新訳」もまた、いずれ私たちは慣れ親しみ当たり前のように使っているのかもしれない。
かく言う私も、私とドイツを深く結び付けてくれた大恩ある著者・池田氏の自然に対する姿勢に共感した1人であり、同僚や業界人同士での会話を別にして、単に「森林」という存在について話す際には「森林と人との距離感」を少しでも縮めるために「森林」ではなく「森」と努めて表現するようにしている。
加えて、これまで私は「足るを知る(者は富む)」という表現で森づくりのスタンスを話してきたが、著者の使った「気くばり森林業」という言葉はまさしく言い得て妙ではないだろうか。今後は私も「気くばり」という言葉を積極的に使ってみようと思う。

さて、前置きが長くなった。本書は多様性というキーワードを主軸に著者のこれまでの日独での経験談を交えて執筆されたエッセイである。穏やかな口調で語りかける著者が紡ぐ文章は、読者に程よい心地よさを与えてくれる。
冒頭で語られる好奇心旺盛な幼少期の原体験には、誰しもがどこかしら懐かしさを覚えるであろうし、著者が活動拠点とするフランス国境にほど近い地方都市フライブルク市は、私も幾度となく訪れ、そしていずれまた再訪したいと切に願う想い出の街であるが、著者の描写するその美しい街並みはきっと多くの読者を魅了することだろう。
そして本書の前半から後半にかけては、日独の架け橋として双方の視点から、森林・林業・木材産業、さらには里山、保養などについて、ややもすれば読者を二項対立の思考領域へと誘引しそうになりながらも、そのいずれについても的確に課題や有意点を示唆してくれる。
加えて、著者の関心は最新の脳神経学から哲学、精神性にまで多岐にわたって飛躍するため、読者の中には消化不良で半信半疑に受け止めてしまう人は少なくないだろう。だがしかしその感覚はやがて、未知なるものを知り、彼我の違いを知ることの楽しさを教えてくれる切っ掛けとなるだろう。

○本書の構成
本書は全5章からなる。各章はいずれも著者の日独での経験から得られた深い思索の末に辿り着いた内容となっているが、森という存在に対する畏怖や敬愛の念、日本の森林・林業・木材産業へのアドバイスにとどまらず、近年、欧州諸国で注目を集める森林浴や最新の脳科学に関する話題など幅広い。ドイツを代表する文学者であるヘルマン・ヘッセの言葉を引用して、環境、経済、哲学、音楽などの分野についても言及している。

 第1章 気くばり森林業
 第2章 日本でこそ森林業を!
 第3章 地域に富をもたらす多様な木材産業
 第4章 生活とレジャーの場としての森林
 第5章 多様性のシンフォニー
 
第1章では、明治から大正にかけ欧米各国に留学した数々の若き日本の才能たちが持ち帰った知識や経験、そしてそこに通底する人知を超えた自然に対する畏敬の念、ドイツで300年以上前に生まれた持続可能性という言葉の歴史等にも触れながら、著者がドイツで学んだ森づくりの哲学や知識を紹介する。この章では、森林・林業関係者に限らず、少しでも森に関心のある読者であれば、将来を見据えた森づくりの必然性を真摯に学ぶことができるだろう。
続く第2章では、ドイツから来日したフォレスターの視点から、日本の森の豊かさ、それを当たり前と思う日本人の意識、そしてその裏返しとしての、自然の豊かさに胡坐をかいた無頓着さが綴られている。私自身、直接的間接的に関係してきた内容が記されていることもあって、ここが私にとっては本書のハイライトとも言える。
著者のコーディネートにより来日したドイツのフォレスターたちが感じた日本の森林・林業・木材産業への違和感、真摯な専門家であろうとするが故に苦悩した異文化コミュニケーションの狭間等々、それらはまるで、多様性を包摂するための課題について考える機会を改めて与えてくれようとしているかのようだ。
第3章では、地域内が連環する木材産業のカスケードとクラスターについて、輸出産業にまでなった強い存在感を示すドイツの林業・木材産業は、今もなお弛まぬ努力を続けていること、そこには過去30年にわたって林業が環境配慮へ大きくシフトしてきた背景を有していること、そしてそれを支える土台となったのは、世界に冠たるマイスター制度と誇り高き職人たちの手仕事にあることが述べられている。
第4章では、日本発祥と言われ、近年は欧州で大変な人気を集める森林浴や農山村でのグリーンツーリズムなど、いわゆる森林サービス産業に関するドイツの実情について自身の経験談を交えながら紹介している。
本章で著者が指摘することは、今の日本の森林・林業関係者にとって最も大切なことの一つといえる。それは、林業は林業のためだけにその営みがあるわけではないということであり、人々がその地で豊かに暮らすためには、厳しい自然と対峙しながらも美しい景観を守ることに必然的な意味があるということだろう。日本と欧州の自然に対する価値観やスタンスの違い、あるいは自然のコントロールのしやすさの違い等々、説明の仕方は国や人の数だけ幾通りでもあるだろう。しかしそれも、著者の子供も利用し日本でも徐々に広がりを見せつつある森の幼稚園の体験談を説明するところに至って、森の恵みの享受の在り様は日欧で共通することが実感できる点は大変興味深い。
そしてまとめとなる第5章では、森と人との営みを超え、生命の原理や脳の仕組みの探求にまでさらに踏み込み、より一層、内観的な視点から著者自身の有する多様性に対する考え方、あるいは多様性への憧憬を開陳している。
本書によれば、「考えと気持ちと行動が一致していて、外の世界で起こっていることが自分が予期・期待していることと大きくかけ離れていない状態」のことを「コーヒレント(注:コヒーレントの方がより正しい発音か?) coherent」と呼ぶそうだが、著者は本章において『自ら新しいことを学んだ時、すなわち、非コーヒレントな脳の状態を、自分の力でコーヒレントな状態に転換できた時、人間は幸福感を味わう。』と言っている。
まさしくこの感覚こそが、豊かで美しく未来へと繋がる森づくりには欠かせない「観察」という行為の大切な要素の一つであると私は考える。
森に一歩入れば、そこはいつでも未知なるものへの好奇心で満たされるセンスオブワンダーの世界。大人になってから久しくこんな気持ちを忘れていたが、本書を手に取り心地の良い春の森へと出かけていくのも悪くない。本書はそんな気持ちにさせてくれる一冊である。

中村幹広

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ドイツでもウッドショック 〜ソリューションは「信頼」をベースにした小さなプレイヤーの地域内連携にある

建築用の製材品は、輸入もあるが輸出もあり、原料の森林原木も製品も実質100%自給できているドイツでも、ウッドショックが起こっている。住宅産業を支える地域の工務店は、コロナの最中も安定して受注があり、今でもたくさん仕事を抱えているのに、以前は注文から1週間で手に入っていたスタンダードな集成構造材やOSBボードが8週間待ち、価格も以前立方350ユーロだったものが650ユーロなど、大変な事態になっている。

約70%の木材需要を輸入材に頼っている日本と違い、実質100%自給できているドイツで、なぜウッドショックが起こっているのか?

理由は、ドイツの製材品供給量で半分以上を占める大型製材工場数社を中心とした大手の製材品が、2月くらいから、大量にアメリカや中国へ、仲買会社を通して流れているからだ。アメリカの大きな木材供給元であったカナダで旱魃による大きなキクイムシ森林被害があり、さらにカナダの製材工場がしばらくの間、コロナでロックダウンしていたことで、国の助成政策によりリフォームや新築ブームが起こっているアメリカが一時的な木材不足になり、今年に入ってから高値でヨーロッパの木材を大量に買っているのだ。

長年、安定してジャストインタイムで国産材の製品を入手できていたドイツの建築業界が、急に、木材が入手できない、という緊急事態になっている。現在、木造建築業界と大手製材工場が、政治家も一緒に、国レベル、地域レベルで一つのテーブルについて、国内供給確保のための緊急の話し合いを行なっている。

一方で、それほどウッドショックの影響を受けていない工務店もある。大手からスタンダードな集成構造材などをちょっと安く買って「合理化」を追求するのでなく、地域の小さな製材工場との「信頼」をベースにした繋がりで、地域の無垢材を自分の工房で手工業的に加工したりして建物を作っている会社、森から製材工場、建設まで一貫したシステムでやっている会社などである。地域の小中の製材工場は、市場に若干合わせて製品の値上げも少ししているが、原木を供給する森林所有者に20%くらい高く支払い、製材品の価格は30%くらいの値上げで抑える、という風に控えめである。地域の「仲間」である顧客との「信頼」がベースにあるので、自分も世界市場に便乗して100%値上げしよう、などということはできないし、やらない。

「自由」な市場経済と一般に言われるが、実際には、市場参加者がみんな自由で平等にプレイすることは、現在の資本主義経済では不可能だ。価格や商品の入手は、力関係が決める。資本力があり、市場シェアが大きいプレイヤーに、より大きな決定権がある不自由で不平等な市場だ。

でも、小さなプレイヤーが、小さなプレイヤーだからこそできることがある。カフェやスーパー、地域のお祭りやスポーツイベントなどで立ち話ができるコミュニケーション条件下で、お互いが「利益」を最大化することをでなく、「信頼」を最大化することで協力的にビジネスをする。そういう地域の連携ビジネス構造は、大きなプレイヤーの冷酷さや気まぐれの影響も受けにくい。そもそも「利益」の最大化を第一目標にして活動する大きなプレイヤーには、小さなプレイヤーなど、全く眼中にない。

信頼をベースにつくられた地域の連携ビジネス構造は、資本主義経済のシステム病理であるバブル崩壊や金融危機にも比較的強い。リーマンショックでも強固さとフレキシブルさを証明したし、ウッドショックも上手く乗り切るだろう。今回のウッドショックで、日本でもドイツでも、木材の地域流通構造に関心が集まっている。今日思いついて明日に構築できるものではないが、将来のために、豊かで安心して住める地域にしていくために、個々のプレイヤーが地域ぐるみで努力する価値があることだと思う。

信頼は喋るだけでは構築できない。行動が必要。新刊「多様性〜人と森のサスティナブルな関係」の第3章も参照にしてもらいたい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3

2021年6月16日 18:30より、このテーマでオンラインセミナーを開催します。
https://woodshock.peatix.com/view

オンラインセミナー Wood Shock

日本とドイツのWOOD SHOCKから見える問題・課題、未来のソリューション

2021年 6月16日(水) 18:30-20:30  zoomのウェビナーを使用

レクチャー 70分  参加者とディスカッション 40-50分  参加費:1500円/人

https://woodshock.peatix.com/view

日本をはじめとして、世界規模でウッドショックが起こっています。製材品は実質自給でき、安定した強い木材産業がある私が住むドイツでも!

ウッドショックは市場に大きな動揺を与えています。これまで隠れていた、もしくは据え置きされてきた森林・木材クラスター構造の問題や課題が露わになり、反省や改善の議論がされ、変化のプロセスが始まっています。

木は毎年成長しますが、分散して存在し、保続的に供給可能な量には限りがあります。本セミナーでは、エコロジカルな観点でも優れた自然のマテリアルを、持続的に使い、国を地域を幸せにしていくためのコンセプトと手法を提起し、みなさんと熱く議論したいと思います。

森林業のロマン ~サスティナブルな地域木材産業の前提条件

分散して存在し、重くてかさ張る原木は、輸送ロジスティックのコンセプトが要!

森の多様な原木と均質化と量産を求める経済

利益でなく信頼を最大化する地域ビジネス ~ウッドショックに大きな免疫力を発揮するドイツと日本の事例

地域の伝統文化やツーリズムとの有機的な融合に関する日独事例

第6感で感じる快適さ

KANSOモデル棟第1号を新オフィスとして使い始めて3週間が経つ、もるくす建築社の佐藤欣裕氏に、実感を聞いてみました。「室温はすごく安定している。自分が住んでいる省エネ建築の自宅と比べて、マテリアルの質感が圧倒的で、何か、第6感で感じる心地よさがある」という回答をもらいました。現代の省エネ建築の合言葉は「断熱」ですが、KANSOでは、「蓄熱」と「調湿」を主軸にしています。「断熱性能」は、空気の温度差があるところでの、マテリアルの熱伝導率に基づいて導き出されます。空気の温度を基準にしたとき、その空気に挟まれたマテリアルが、どれだけ熱を逃しにくいか、ということを表現しています。一方で、「蓄熱」は、マテリアルが熱を「吸熱」したり、「放熱」したりするマテリアル自体の性能です。空気の温度は基準ではないし、直接的には関係ありません。また、断熱は、熱の「伝導」と「対流」をベースにしたマクロ物理学の理論で明確に説明できることですが、「蓄熱」では、熱を持った物体から出る「電磁波」の放射と吸収という、ミクロの量子力学の世界の事象が中心になります。マテリアルの放熱や吸熱の量やスピードや深さは、マテリアル自体の絶対温度や分子や細胞の構造によって変わってきます。様々なパラメーターがあり、流動的であり、簡単に数字で説明することが難しい事象です。現代の建物のエネルギー性能は、マクロの事象を扱う熱力学の「断熱」を中心的な指標にして計算されています。「蓄熱」も、建物エネルギー証書の数字の算出の際、一応考慮されてはいますが、大雑把な概算式であって、蓄熱のマクロの世界の「母音」はある程度表現できていても、ミクロの世界の「子音」は含まれていません。証書のエネルギー性能は同じ値の建物であっても、蓄熱や調湿性能が高い建物の方が、実際のエネルギー消費が低い、という「不思議」な事例は沢山ありますし、または室温が18℃であっても、マテリアルの電磁波による熱放射作用によって、体感温度は22℃くらいに「快適」に感じることは、住んでいる人が経験しています。「佐藤さんが言う第6感というのは、ミクロの量子の世界のことかもしれないね」と私は返しました。ミクロの量子論の世界は、マクロの世界(人間の一般常識や感覚)とは全く異なる現象と原理があります。私はそれに魅了されている1人ですが、理屈で理解しづらい不思議で神秘的な世界です。物理の世界では、マクロとミクロの世界の大きな隔離を埋めるための研究が進んでいます。最近、ネットで見つけたのですが、2017年に、東京大学の研究チームが、マクロの世界の熱力学第2法則を、ミクロの世界の量子力学から導出することに成功したようです。これは画期的なことです。https://www.t.u-tokyo.ac.jp/…/setnws…

利益ではなく、信頼を最大化することで得られる生活のクオリティ

私の住む街に、広葉樹専門の製材工場があります。年間2万立米くらいを製材しています。広葉樹の多くは、その組織構造から、水が抜けにくく、製材したあと、数年間ゆっくりと自然乾燥させなければなりません。樹種や製材した板の太さにもよりますが、写真にあるような7cmくらいの厚みのオーク(ミズナラ)材であれば5年前後の期間が必要です。針葉樹の建築用材であれば、人工乾燥機を使って数日から2週間程度で乾燥され販売されていますが、広葉樹の場合は、急速に水抜きをすると材の品質が大きく損なわれるため、現在でも数年の自然乾燥が必須なのです。これは、製材工場にとっては、2年から7年という比較的長い期間、流動資産を大量に抱えて商売をするという、非常にリスクの大きい経営です。製材工場には絶えず2年間の製材量くらいのストックがあります。速さや効率がもてはやされる現代の市場においては、大きな挑戦だとも言えます。

しかし、製材工場の経営者には、特別な気負いはなく、昔からそうだから、自然のマテリアルの性質上、それしかやる方法がないから、そうやっているだけです。スピーディな市場の中でのスロービジネスです。ただそれを可能にしているのは、製材工場の力だけではありません。

まず、多種多様な原木を育て、年々、安定して供給することができる地域の森林所有者が必要です。州有林や自治体有林や私有林です。森林所有者は、樹木という数十年以上の流動資産を育て利用します。高級な家具やフローリングに使われる大きなオークであれば、200年から300年です。広葉樹製材工場の流動資産の所持期間が長いと言いましたが、それからすると森林業の流動資産は「超」長いものです。300年と言うと10世代くらいです。絶えず次の世代のことを想って資産を維持し育てながら節度ある利用をしていくという、世代間の契約がないと成り立ちません。また、成長が速く育て易い針葉樹の一斉樹林の拡大という、とりわけ産業革命以来の人間の工業的思考の実践がもてはやされた中で、多様な樹種のある森を育ててきた人たちがいるから、私の街の広葉樹製材工場も長年経営できるのです。

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また、木材は一本の丸太でも、肉のように多様な部位があり、楽器や工芸品、家具や建具、梱包材や製糸用パルプ、薪やチップと、多様な用途があります。それにオークやブナ、カエデやトネリコ、サクラやクリという多様な個性を持った樹種が相乗されます。広葉樹製材工場は、多様な売り先を抱えていなければなりません。丸太の中でも節が全くなく柾目で綺麗な最高級の上ヒレや上ロースの部位を高く買ってくれる地元のオルガン工房だけでは不十分です。普通のロースもカルビを買ってくれる家具建具工房や、多品目を揃えている卸売業者、ワインの樽をつくる工房、ロクロで木製の器や皿、工芸品を作る工房、ハツやレバーに当たる製材端材を買ってくれる製糸工場やパーティクルボード工場などの多様なお客さんがいて、初めて森から仕入れる多様な部位からなる「生き物」である丸太を製材する業が成り立ちます。

多様な原木が森から製材工場を通して多様な最終加工業者へ。それによって、数世代に渡って使える重厚な木製家具や、教会やコンサートホールで人々に数百年の間、喜びや感動を与え続けるパイプオルガンが製作され、土地の香りとエネルギーを濃縮したぶどう酒に渋みと丸みがブレンドされます。均質化による部分効率化ではなく、多様性を生かすことによる様々な付加価値の創出で、競争ではなく協力で、利益ではなく信頼を最大化することで得られる生活のクオリティです。

著書「多様性~人と森のサスティナブルな関係」 池田憲昭